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県西随想 ~県西歴史物語~


阪急と県西


もうかなり以前になるが、県立の博物館員だった頃、阪急電鉄の依頼で、開業90周年(2000年)に出版された『阪急コレクション』(阪急ワールド全集1)の巻頭特集「絵葉書で見る阪急沿線」というカラー特集に協力したことがある。[ターミナル探訪][阪神間時間旅行][懐かしの宝塚]といった構成で、神戸の阪急三宮駅や梅田の阪急百貨店、ミナト神戸、六甲山、芦屋、苦楽園、甲陽園、夙川、宝塚少女歌劇、宝塚温泉、宝塚新温泉パラダイス、宝塚ホテルなどの、収集していた戦前の絵葉書を紹介したものだが、この本は、マルーン・カラーで知られる阪急電車の車両の紹介や、沿線歳時記、宝塚歌劇、ファミリーランド、西宮スタジアム、スポーツ、カルチャー、ターミナル、ライフスタイルまで貴重な情報が満載で、ポスターや沿線パンフレットも集め、阪急沿線文化を一望できるようになっていた。もちろん、それから18年。ファミリーランドは姿を消し、西宮スタジアムはガーデンズに変わったので、現在の生徒たちは知らない世界もあるだろう。しかし、特に、戦後、上ヶ原に移転してから現在までの県西が、通学でこの阪急を利用する生徒や、通勤で利用する先生が多く、小林一三氏によって創業された日本を代表する私鉄の文化圏という歴史的環境の中にあったことは間違いない。
 阪急の前身の箕面有馬電気軌道が1910年(明治43年)3月10日に梅田―宝塚間(24.9㎞)で営業運転を開始し、10年後の大正9年には阪神急行電鉄として梅田―神戸(上筒井)間(30.3㎞)や伊丹支線、翌年の1921年(大正10年)9月2日には、西宝線(西宮北口―宝塚、当時は単線、7.7㎞)の営業が開始した。この西宝線は翌大正11年には複線化する。1924年(大正13年)10月1日には甲陽支線(夙川-甲陽園、単線、2.2㎞)、さらには1926年12月18日には、西宮北口―今津(1.9㎞)が営業開始して西宝線を今津線と改称した。1936年(昭和11年)4月1日には三宮への高架乗り入れが実現して、梅田―神戸(三宮)間(32.5㎞)が営業開始し、これらの発展で、現在の宝塚線や神戸線の原型ができる。今津線と神戸線の十字形に線路が交差するダイヤモンドクロスは全国的にも珍しいものであった。このようにして「阪神間モダニズム」と呼ばれるハイカラでモダンな阪神間を、駅前の宅地開発や遊園地などと合わせ鉄道網で結ぶ阪急電鉄は、昭和初期に神戸から移転してきた関学・神戸女学院、さらには戦後の県西などの多くの学校の通学手段としても発展したのである。『神戸女学院の125年』には、かつて「神戸女学院・貸切車」と正面に看板表示をつけた、貸切通学電車があった写真が掲載されている。門戸厄神までの運転だったのであろう。
 さて、では、県西と最寄り駅の「甲東園」での、かつての通学風景や阪急電車の車両を伝える写真は無いであろうか。たとえば、甲南学園(甲南大学)の場合、かつての旧制甲南高校の制服姿の学生たちの阪急岡本駅のホームで過ごす姿が、岡本商店街の制作した昔の岡本の写真集の冊子に出てくるのだが、県西はやはり、甲東園の駅で多くの学生が乗降するから、通学風景の記憶として甲東園駅の写真が残っているはずである。そこで、昔の卒業アルバムをいくつか見てみると、やはり、出てくる。たとえば、1955年(昭和30年)や、その翌年のアルバムでは次のような写真を目にすることができた。今、見ればレトロな電車だが、当時は、憧れの電車通学であったのかも知れない。阪神・淡路大震災の被災のあと、阪急の甲東園の駅舎は、文教地区の関学や神戸女学院のヴォーリズ建築(スパニッシュ・ミッション・スタイル)を意識するかのようなデザインに変わった。この駅を毎朝、他校の生徒・児童の人波とともに県西生が学校へと急ぐ。さあ、駅を出たら、七曲がりの登り坂だ。 (石戸信也)

甲東園駅の通学風景(1955年、県西「卒業アルバム」から)。阪急電車の車両は「326」、「宝塚・今津間」と表示されている。アルバムでは「放課後」ページにあり、帰りだろう。
甲東園駅の通学風景 (1956年、県西「卒業アルバム」から)。阪急電車の車両は「312」、「宝塚・今津間」と表示されている。これも「放課後」ページである。「昇り降りた三年、 ああ、この道」という言葉もある。
阪急電車 甲東園駅(1958年、県西「卒業アルバム」 から)。登校時の風景であろう。甲東園駅は、長く木造駅舎であった。

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