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県西随想 ~県西歴史物語~


県西の「昭和ヘリテージ(遺産)」①

今年、兵庫県立美術館で、4月17日(土)~5月30日(日)、「写真家・中山岩太~私は美しいものが好きだ~レトロ・モダン神戸」展が開催され、私の収集資料77点の出品やレクチャー講演で協力した。1918(大正7)年、東京美術学校臨時写真科の第1期生として卒業後、ニューヨークやパリで活躍し、1929(昭和4)年からは芦屋を拠点に活躍した、モダニズム写真家・中山岩太の作品を中心に、戦前の芦屋カメラクラブや画家の小磯良平・小松益喜・川西英、彼らの素晴らしい作品の舞台となった神戸・阪神のかつての姿を振り返る展覧会である(同展図録を参照)。新聞などメディアや、JR・私鉄の各駅の大きなポスターで見た人もいるだろう。この時、私が出品した77点の絵葉書などの資料の中に、戦前の阪神国道電車のパノラマ路線図がある。
 かつて大阪と神戸を結ぶ道路は旧国道で狭く、近代工業の発展や阪神間の人口増加、自動車の増加に対応できなくなり、大正時代、「阪神国道」の建設が開始した。阪神電鉄はこの新しい国道に新しい鉄道の軌道を計画し、大正14年に別会社の形で阪神国道電軌が誕生、この路面電車の軌道は国道の工事と並行して急がれ、昭和2年7月、野田―東神戸間の26kmが開業した。さらにこの路面電車のレールは神戸市電とつながり、パレードなど相互乗り入れができた。阪神国道電車はこの大阪・神戸間の国道線に加え、西宮の上甲子園から浜甲子園に至る甲子園線や、北大阪線もできた。阪神国道は、大正15年6月の大阪毎日新聞では、「東洋一の大道」と賞賛され、まさに「大大阪」と「大神戸」を結ぶ主要道路となって、その路面を阪神国道電車が走ったのである。当初、この国道を走る電車については、意見が対立し、大阪府側は不要論だったが、兵庫県側は必要論で兵庫県が「勝利」した。しかし、のちに沿線の人口増加や自動車の激増で電車の走行は苦労した。昭和38年には混雑緩和のために第2阪神国道が開通、モータリゼーションの波が押し寄せ、各地の路面電車廃止と同様、阪神国道電車も廃止の道をたどる。なお、大阪市電は昭和44年、「東洋一」と言われた美しいグリーンのモダンな神戸市電は昭和46年に廃止されている。 こどもの頃、神戸の市電や、この阪神国道電車によく乗ったから、路面電車は懐かしい。最近は、ヨーロッパ各国など、環境に優しい路面電車の再評価が高まっている。
 東神戸―西灘間(0,9km)は昭和44年12月13日、西灘―上甲子園は昭和49年3月16日、上甲子園―野田間と甲子園線・北大阪線は昭和50年5月5日に廃止された。そしてこの阪神国道電車の敷石は、その一部が県西に寄贈されるのである。グランドの同窓会館の近くに、寄贈されたこの敷石がたくさん積み上げられていた光景を在学中見たのをよく覚えている。「80年のあゆみ」では、写真とともに、同窓生今井氏の全面協力のもと、この敷石を敷く工事が昭和50年7月に完成したと紹介されている。同窓会館への約150メートル、巾1メートルの敷石の道が完成したのである。そして、かつて宮商生をはじめ幾多の同窓生が踏みしめた国道電車道の敷石と述べられている。この敷石は、まさに西宮をはじめ阪神間が近代都市として発展したことを伝える歴史遺産であろう。昭和のヘリテージである。そして、今日もこの敷石の道の前のグランドでは、毎日、運動部員たちが熱心に練習している。多くの人々、先輩たちの協力で県西の校地と歴史がつくられてきたことを、今の県西の生徒たちも知ってほしい。2010年9月17日執筆(石戸 信也) 

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