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県西随想 ~県西歴史物語~


今年、兵庫県150年。来年、県西100年

兵庫県立西宮高等学校、「県西」は、言うまでもなく、兵庫県が設置し、県民の税をはじめとする支えによって教育活動を展開している、兵庫県立の学校の一つである。この「兵庫県」は、今日、2018(平成30)年7月12日、150周年を迎える。「兵庫県」は、1868(慶応4)年5月23日に成立したが、この日は今の新暦では、7月12日になる。幕末から明治維新へと近代の幕開けとなる時代が激動の連続であったことは、日本史でも学んだことだろう。1867(慶応3)年10月には大政奉還、12月には兵庫開港、王政復古の大号令となり、翌年1月には戊辰戦争が起こり、兵庫鎮台が設置され、神戸事件も起きた。2月には兵庫鎮台が廃止されて兵庫裁判所となり、5月にはこれを廃して兵庫県を置き、初代知事は長州閥の伊藤博文。まだ20代の青年であった(神戸の旧居留地に「伊藤町」の町名が残る。彼は1909年にハルビン駅で,義兵運動弾圧に抗議する韓国の民族運動家・安重根に暗殺された)。江戸が「東京」となるのは7月、「明治」と改元するのは9月だから、兵庫県誕生はそれより前になる。
 福沢諭吉はこの年の4月に自分の塾を「慶応義塾」と名づけていたが、兵庫県内では「文明開化」を背景に欧米の先進的な学問を取り入れようという洋学校が生まれ、三田藩でも福沢諭吉に指導を依頼したという。諭吉の義弟の福沢英之助も1871(明治4)年5月には兵庫県に来た。廃藩置県(7月)の少し前だが、翌年には諭吉の『学問のすゝめ』が著される。この後、兵庫県の教育界では慶應義塾の関係者が影響力を持ち、実学を重んじる商業教育など、開明的な教育の実施に大きな役割を果たした。慶応義塾の門下生など関係者は兵庫の官僚・経済人・ジャーナリストなどで「交詢社」を作り、千数百名を数えた。明治10年、開港場を持つ兵庫県は、慶応義塾協力による商業学校設立を取り決め、翌年、東京に次いで2番目の神戸商業講習所を開校する。県西の開校は1919(大正8)年。明治維新から約50年後の「大正デモクラシー」の時期だが、先進的な商業教育が展開された兵庫県に生まれたのである。県西の前身の学校の商業教育と開明的な実学の思想との関係は調べる必要があるだろう。西宮神社前に「明治八年 開化時」と刻まれた文明開化の石製の敬神燈があるが、町立西宮商業補習学校はやがてこの西宮神社の南で誕生した。
 広い兵庫県は県西のある摂津や、播磨、但馬、丹波、淡路とそれぞれ豊かな表情を持ち「五国」と表現される。しかし、その成立は単純ではなく淡路の稲田騒動など波乱に満ちており、1868年の兵庫県成立を第1次とし、第2次兵庫県成立の1871年は豊岡県・姫路県・名東県(淡路全島)もあった。同年、姫路県は飾磨県になり、さらに1876年8月、兵庫・飾磨・豊岡・名東(淡路)の4県を合併して第3次兵庫県となる。第2次兵庫県では県令(知事)として神田孝平が着任したが、開明的な洋学者として著作も知られる神田県令は教育に熱心で、顕微鏡を持参して親しく教員や生徒に接し、各学校を見てまわったといわれる。しかしのちに薩摩出身の森岡昌純県令は開明的な慶応関係者による自由民権運動を恐れ、「明治十四年の政変」もあって、兵庫の教育を方向転換させていく。兵庫県政、そしてその県下の教育は誕生以来、このような波乱と紆余曲折の歴史を重ね、今日に至った。県西の100年は兵庫県政の3分の2の長さに及ぶ。県政150年、県西100年。それは近代日本の歩みそのものではないだろうか。(文・絵葉書所蔵 石戸信也)

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