〒662-0813 西宮市上甲東園2-4-32
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「翼をください」という歌が昔よく各地の学校の合唱コンクールで歌われた。自由な空、大空に翼を広げ、はためかせて飛んでいきたいという願いである。さて、鳥のように翼を広げ、大空から町を見るとどう見えるだろう。ドローンも無く、航空写真もほとんど無かった時代、実は、大空を飛ぶ鳥が見たように都市をパノラマで描写する「
ところで、吉田初三郎が戦後の1952年(昭和27年)、つまり晩年に描いた『西宮市』の鳥瞰図をやっと入手した。彼は戦前戦後と西宮の鳥瞰図は3種類、製作したようだが、その1つである。甲山を中心に置き、その左右に西宮の町や名所を精緻に描いている。特に広田神社、西宮戎神社、阪神パーク、六甲山、蓬莱峡などが朱書きされ、酒造をはじめとする企業や学校、寺社、病院、新聞社、遊園地、映画館など、宝塚方面、武庫川上流まで細かく描かれている。興味深いのは鳴尾のイチゴ畑、今津のタイヘイレコード会社、夙川河口の回生病院、宝塚のウイルキンソンタンサン工場、阪急夙川近くの、文化人が集まり有名だったパインクレストホテル、また甲子園ホテル(現在,武庫川女子大学 甲子園会館)などがみられることである。戦前から、西宮が音楽レコードを製造する産地だったということは、LPレコードの音盤さえ知らない今の生徒諸君は、想像もできないかも知れない。上ヶ原、甲東園から門戸厄神の部分を見てみると、「甲陵中学」「県立高校」「関西学院」そして「神戸女学院」「聖和学院」という表現で名前を書き、それぞれ校舎群が描かれている。そう、この「県立高校」とは、我らが県西である。1950年(昭和25年)に上ヶ原に移転してくるから、その直後の姿なのである。「大正の広重」吉田初三郎は、県西も描いていたのだ。
さて、県西を描いたイラストや絵画は多くあるが、ここでは、2枚の大きな校舎の絵を紹介したい。現在のA棟(本館)は1979年定礎という銘板が玄関横にあるように、それまでの木造2階建ての校舎を1978年(昭和53年)11月に取り壊した後、建設された。この取り壊された本館管理棟の旧校舎は講堂や旧図書館と同様の美しい赤屋根瓦とクリーム色の壁のイメージで、落ち着いた学舎であり、築山の奥の正面玄関は、ギリシアの神殿の列柱と三角ペディメント(破風)を思わせるファサードで、「県西」の象徴であった。私は、前年の1977年3月の卒業であるから、この上ヶ原に戦後移転してきてから多くの人々に愛されてきた、もう老朽化もしていた校舎で過ごした最後の世代の一人と言える。教育実習で母校に戻った時は、新しい今のA棟に変わっていた。
この旧本館の取り壊しの時、生徒たちがB棟の階段や体育館から、取り壊されていく校舎をカメラにおさめていたことが『80年のあゆみ』に記録されている。
そして、当時の美術部は取り壊される寸前の木造校舎を1978年(昭和53年)7月から約3か月かけて、100号の大作2枚に制作した。美術部員たちによるこの制作風景の写真も『80年のあゆみ』には掲載されている。この絵は新校舎のポーチに掲げられたようだが、この新しい本館(A棟)も約40年が経過した現在は、史料室に大切に保管している。県西の長年、愛されてきた木造校舎が消えるにあたり、当時の美術部員がまさに取り壊される寸前の時間との競争の中で、協力して描いた大作である。この2枚は、木造校舎に思い出深い卒業生はもちろんのこと、県西にとって大きな財産である。県西を象徴する校舎を当時の色や空気を伝える建築景観として後世にのこしてくれたからである。再び、みんなの目にふれる場所に掲げたいと思う。描かれた県西、それは青春の記憶だからである。(石戸信也)
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吉田初三郎 「西宮市」パノラマ鳥瞰図 (1952年) (石戸所蔵) |
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吉田初三郎 「西宮市」パノラマ鳥瞰図 (部分) |
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県西旧木造校舎(本館A棟) 美術部制作(1978年) |
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県西旧木造校舎正面玄関 美術部制作(1978年) |