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県西随想 ~県西歴史物語~


県西と、甲山ものがたり


いつも県西のキャンパスや校舎から望む甲山。近隣のスパニッシュな建築の、関西学院のシンメトリーなキャンパスにとっても中央の借景になっている甲山。今、遙かな六甲の山々とその前に、丸く、そびえる甲山は、紅葉の季節であり、まさに言葉どおり、「錦秋」の装いを見せてくれている。日々、朝夕の寒さがきびしくなる、ここ上ヶ原で、確かに山の色の変化が季節の移り変わりを感じさせるのである。309,2メートルの高さの甲山は、かつてはその形からトロイデ型の火山ではとも言われたが、花崗岩の六甲山とは異なる安山岩の地質を持ち、最近は、1200万年前に誕生した火山で、その後の周囲の侵食が考えられているようである。六甲山も甲山も人類の出現するよりはるか前に隆起し、山となったのだ。ともかくも県西から望む丸い山容はとても美しく、新緑の頃は、「六甲の山脈 晴れわたり、緑色こき甲山、麓の野辺の水清き……」という校歌の歌詞の通り、その美しさを増す風景になる。西宮には甲東園・甲陽園・甲風園と、「甲」のつく地名がある。
 この甲山はかつて百年前の明治の頃は何と呼ばれていたか。たとえば、明治時代に活躍した自然主義の作家に田山花袋がいるが、国語の教科書にも出てくるような有名な作家で、代表作「蒲団」や「田舎教師」は知っているだろう。「蒲団」は、主人公の作家が、上京してきた、神戸女学院出身(と言っても今の西宮・岡田山でなく、その移転前の神戸・山本通)の若い女性を弟子にするが、彼女は同志社出身の神戸教会の青年と恋に落ちており、この作家は彼女への未練絶ちがたく、蒲団に顔を埋めて泣く、というような話であった。これらの作品からすると暗く重い感じの作家だが、ところが明治40年にセンセーショナルな「蒲団」を発表した後、むしろ軽快な感じの「温泉めぐり」という全国の温泉紀行の本を大正7年に博文館から出している。最近は岩波文庫でも出たので読んでみよう。彼は名湯・有馬温泉を訪ね、六甲越えして阪神間や大阪湾を眼下にしながら下山するのだが、甲山のことを「前にひろげられた大阪湾が大きな池のように、そこに往来する汽船や舟は丸で玩具か何かのように見えた。例のビスマルク山と呼ばれた甲山が黒く小さく下に見えるのも面白かった。」(岩波文庫、「温泉めぐり」、2008年版)と述べている。「ビスマルク山」とはおそらく神戸の外国人たちが命名したのだろうが、この「ビスマルク」は世界史に登場する19世紀のプロイセン(プロシア。現在のドイツ)の鉄血宰相であることは言うまでもない。森鴎外の「舞姫」の舞台の国の、ビスマルクの兜の形に似ていたのであろうか。この「温泉めぐり」の初版の翌年、つまり大正8年、県西の歴史がスタートする。
 甲山は、県西だけでなく、近隣の多くの学校からも望め、戦前から、関西学院・神戸女学院・小林聖心をはじめ多くの学生が日々、目にしていたに違いない。今の県西の近くには銀星女学院という学校もあったようだ。戦災で校舎を失った県西が戦後、現在地に移転した時、先輩たちは甲山を見上げながら机や椅子を全員で上ヶ原に苦労して運び、校地を整備し、汗を流して自分たちの学校をつくり上げたに違いない。戦後も西宮の多くの学校にとり、校歌に登場するように甲山は大切な山であった。そして言うまでもなく西宮の市民にとってもこの丸い山は愛すべき山であった。最近出た「武庫川紀行」(田中利美著。のじぎく文庫。神戸新聞総合出版センター)に紹介されているように、昭和33年暮れに、甲山にロープウエーを建設し歓楽地化する計画が急浮上したが、関西学院や甲東園・上ヶ原・五ケ山など地元各町の多くの市民、文化人らの猛烈な反対運動で、結局この開発案は消滅した。甲山の素朴な美しい姿は守られたのである。そして、今日も四季おりおりの姿を見せ、県西の生徒の日々の学びを、高校生活を見守っている。2010年12月6日執筆(石戸 信也) 

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