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県西随想 ~県西歴史物語~


県西のルーツ … むかしのハイカラ校舎 ②

1年5組のクラス通信を4月の入学以来出してきたが、生徒諸君の県西の生徒としての成長とともに、今回で第18号になった。このクラス通信の右頁に、時々「県西随想」を書いていたが、この部分は県西のホームページに連載されている。卒業生の教職員として、今の県西の生徒に、自分の学校を、母校を大切にしてほしいという思いで書いてきた。多くの生徒・職員・保護者・卒業生・地域の人々によって受け継がれ、発展してきた県西の歴史や伝統を少しでも知り、「母校愛」を持ってほしい。自分や仲間を、学校を大切にし、成長して、この県西を巣立ち、広い世界で活躍してほしい、そう願っている。
 90年を越える県西の歴史の中で、その草創期の校舎の一つ、久保町にあった、旧市役所のハイカラな洋風建築については、前号で述べた。今回は、ハイカラ校舎②として、六角堂の今津校舎も見てみよう。前回も述べたように、県西は、それぞれの時代の状況の中で、校地を何度も移転し、また校名も改称して変遷を重ねてきた。昭和14年(1939)には、老朽化し狭くなっていた久保町の校舎(明治初期の旧小学校の再利用であった)から、春風町に新築移転した。4月10日のことである。生徒たちの、西宮市立西宮商業学校として新しい校舎が欲しい、広いグランドが欲しい、といった切実な願いは、さまざまな世論喚起や請願運動に発展し、ついに、商都西宮を支える学校として、新校舎の竣工を実現したという。当時の生徒たちの喜びはどれだけ大きかっただろう。
 この春風町の新しい校舎は、普通教室10室を含む22室、総坪数4,500坪、運動場3,500坪であり、校訓は「至誠一途」「質実剛健」「協力一致」であった。しかし、喜びもつかの間、この新校舎は長くは続かなかった。太平洋戦争へ突入していく時代の変化の中で、軍国主義の戦時体制になり、戦争に直面することになる。昭和19年3月31日には、決戦に臨むため商業学校を工業学校に変えようという文部省の方針で、西宮市立工業学校が併置されたが、戦時下で、多くの生徒が学徒動員された。昭和20年には敗色濃厚の中、3月の東京大空襲をはじめ、大阪・神戸など全国の主要都市が爆撃され、6月の神戸大空襲後は、阪神間の各都市に対してもアメリカ軍の爆撃は苛烈を極めた。8月5日深夜から6日にかけて阪神地方は激しい絨毯(じゅうたん)爆撃にあい、西宮も多くの犠牲者を出して、焦土と化した。本校も全焼し、「西宮市立商業学校」と書かれた門標は焼け残るも、すべてを失ったのである。そして約10日後には敗戦。本校は再び、校舎を求め流転が始まる。
 こうして昭和20年(1945)9月、本校は今津国民学校にとりあえず「避難」することになる。現在の市立今津小学校である。明治6年の常源寺での仮校舎創立も300名以上の就学児童を抱え狭くなっていた今津小学校は明治15年、ハイカラな木造2階建ての洋風校舎、その正面玄関上の六角形の塔屋(バルコニ-)から、のちに「六角堂」と呼ばれる校舎を地元の人々の多くの寄付で完成させ、今津の人々の誇りになっていた。今津・津門町の年間予算と同額ぐらいの巨額の新築費用が寄付されたという。このハイカラ校舎は、学校から甲子園球場まで焼け野原になり、多くの犠牲者を出した空襲にも奇跡的に焼け残り、戦後は昭和30年12月に西に移築して公民館となった。昭和39年には取り壊しの話が出るが、今津小学校の校歌にも登場するように多くの市民に愛された六角堂は、保存運動で守られ、市議会は取り壊し案を撤回する。昭和40年には幼稚園になり、阪神淡路大震災でも倒壊せず、平成10年、創建の場所に近い現在地、つまり「酒蔵通り」に面した位置に移築され、「さわやか街づくり賞」(建築部門)を受賞した。1階は西宮の歴史や卒業生の作家・野間宏の原稿などの展示室になり、今も西宮市民に愛され、守られている。ぜひ見に行ってみよう。実は、現存する小学校の洋風校舎としては、前号で述べた長野県松本市の開智学校に次いで全国で2番目に古い貴重な文化財なのである。このように、この「六角堂」は有名だが、敗戦直後の混乱の中、短期間でも、本校がこのハイカラ小学校に「避難」していたことはあまり知られていないかもしれない。 2010年12月24日執筆(石戸 信也)

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