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県西随想 ~県西歴史物語~


新春ドラマに出た県西 … かつて西宮・宝塚はシネマの街

さて、2011年となった。12月に県西に撮影のロケ隊が来ていたが、新春1月5日、毎日放送開局60周年記念番組ということで、テレビドラマ「トイレの神様」が放映された。年末の紅白歌合戦でも話題になった歌手・植村花菜さんの歌をもとにドラマ化されたことは生徒諸君も知っているだろう。主人公の女性は育ててくれた祖母から「トイレを毎日しっかり掃除すれば、トイレにはキレイな女神様がいるので、べっぴんさんになれるよ」と教えられ、やがてミュージシャンとしても成長していくのだが(小3~23歳頃までを描く。幼少期は芦田愛菜さん、成長後は北乃きいさんが演じた)、高校時代に交際している彼が陸上の選手という設定。ドラマの中で短時間だが、講堂外観にはじまり、音楽教室での練習風景、体育館も見えるグランドでの陸上の練習、といったシーンで、県西が登場したのである。
 考えてみれば、学園のキャンパスが映画やドラマに出てくることは時々ある。たとえば、昨年、村上春樹原作の映画「ノルウェイの森」(トラン・アン・ユン監督)を観たが、神河町の砥峰高原など、兵庫県内でもロケがおこなわれ、たしか原作者の母校である神戸高校や、早稲田大学のキャンパス、また神戸大学の住吉寮も出ていた。学校や生活している町が映画の舞台になるというのは、親しみを感じるし、また話題の場所を見ようと観光客が訪れて、町おこしになる地域もあるだろう。
 開港以来、約140年、神戸は国際港の都市ということもあって、ハイカラでモダンな、食生活や家具、ファッションにスポーツ、建築に音楽と、さまざまな文化の発祥の地となったが、言うまでもなく、映画も神戸が発祥で、メリケン波止場の公園にはその記念碑もある。明治29年、アメリカのキネトスコープを輸入し花隈で上映したのだが、やがて、湊川の新開地は多くの映画館や劇場が密集し、まさに聚楽館(かつて神戸っ子は、「しゅうらっかん」と発音した。)を中心に「西の浅草」とよばれた。イタリアの戦後の映画館を舞台にした「ニュー・シネマ・パラダイス」(ジュゼッペ・トルナトーレ監督。1989年。イタリア映画)は、映画が娯楽の王様で、人々が映画館に殺到した様子を伝えるが、かつての日本もそうであった。東洋一と言われた神戸タワーのそびえる、新開地は、神戸で一番の、三宮以上の繁華街で、ポートタワーができたため壊された神戸タワーは、こどもの頃、乗っていた市電から見た記憶がある。神戸出身の映画評論家・淀川長治さんは、小さい頃、この新開地はもちろんのこと、関東大震災から神戸のオリエンタルホテルに避難してきた欧米人たちのために、オリエンタルホテルが開催していたアメリカなどの映画の上映会を姉とともに観に行って、最新の映画を観ていたのである。
 最近は有川浩原作の映画「阪急電車」が県西の近くの阪急沿線で撮影されたり、「GANTZ」での神戸市中央卸売市場など、神戸・阪神間はたくさんの映画やドラマの舞台になっている。西宮や宝塚も今まで、多くの作品の舞台になった。西宮では、戦後は、古くは谷崎潤一郎原作の「細雪」(新東宝。1950年)や、蓬莱峡で撮影された黒澤明監督の「隠し砦の三悪人」(1958年)、最近は「風の歌を聴け」(1981年)、「She’s Rain」(1993年)、また、アニメ映画では「火垂るの墓」 での夙川など、多くの作品にこの街は出てくる。
 ところで、かつて西宮や宝塚が映画を生み出したシネマの街だったことを知っているだろうか。関東大震災で撮影所が消滅したため、帝国キネマは、芦屋で撮影を開始するが、これが阪神間の映画の文化の開始となった。この大正12年、甲陽園に東亜キネマが開業し、三角屋根の大きなスタジオで多くの映画を撮影した(約4年で京都へ移転)。宝塚では、昭和13年(1938)、宝塚ファミリーランドの位置でスタジオを作り、映画製作が開始した。阪急創業者の小林一三が映画製作を命じたらしい。第一作目は神戸女学院でロケが行われたという。戦後の1951年には宝塚映画製作所ができ、多くの映画スターや、小津安二郎など名監督が宝塚・西宮に集まった時代があった。宝塚は歌劇だけでなく映画の街だった。県西の周辺は、阪神間の映像文化の中心だったのである。 2011年1月11日執筆(石戸 信也) 

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