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県西随想 ~県西歴史物語~


上田桑鳩(そうきゅう)―「質実剛健」の書家

今年の県西祭も大盛況に終わった。講堂では恒例の3年次各クラスによる劇が多くの観客を沸かせ、3年次音楽科のミュージカルも素晴らしく、オーケストラ、文化部や有志の出演とともに、大いに盛り上がった。入学式や学校説明会、講演会などでも使用される県西の講堂は、玄関上部バルコニーや正面の四つ葉状の壁面装飾、赤屋根瓦とクリーム色の外壁、前面に植えられた棕櫚の木によって、ヴォーリズ建築のスパニッシュ・ミッション・スタイルに似た南欧風の異国情緒を醸し出す校舎である。1955(昭和30)年7月22日に上ヶ原のキャンパスの第8期工事として竣工した(明和工務店)。県西のキャンパスの校舎群の中で最古の校舎になる。
 これは西宮市の市費による最後の施設であり、まさに文化の殿堂として期待された。前身の市立西宮商業は戦災で焼失したが、そこには武徳殿という道場はあったものの、講堂は建てられる予定のまま戦争となり、予定地は射撃場にされてしまったという。戦後移転した建石町の校舎では講堂は仕切って教室にされ、上ヶ原移転後も文化祭や弁論大会は甲東小学校の講堂を借り、玄関前のキンモクセイの前で青空総会や青空劇場をしていたというから、この講堂完成の喜びは大きなものであったに違いない。この経緯と講堂での新校舎落成式に臨む生徒の写真が、すでに『70年のあゆみ』に紹介され、木製の長椅子は、注文を受けた吉野の業者が「わが人生最後の仕事」と情熱を注いだと記録されている。10月1日の新校舎落成式では阪本勝県知事、辰馬卯一郎西宮市長ら来賓臨席のもとで挙行され、その時の祝辞も伝えられている。
 この講堂の舞台向かって左側に大きな額が掲げられている。校訓の「質実剛健」である。『創立50周年』記念誌(1969年)の座談会ページに「昭和30年7 月 新築の講堂に掲げられた校訓」と題して写真が出ている。亀岡校長時代に掲げられたと『70年のあゆみ』には出ているから、昭和31年4月~昭和33年3 月までの間であろう。この字は上田桑鳩(明治32年―昭和43年。本名:上田順)の揮毫で、三木市(旧美嚢郡吉川町)出身の前衛書道の大家である。古典を広く学び、比田井天来に師事、昭和5年には文部大臣賞を受賞している。『書道芸術』創刊、大日本書道院や奎星会結成で知られ、戦後は『書の美』を刊行し国際展にも出品して活躍した。日本経済新聞の題字も上田桑鳩である。この上田桑鳩は1951(昭和26)年に日展に出品した「愛」の字をめぐって批判され、昭和30年に日展を脱退している。表現の自由と民主化を求め抗議の意思表示だったのだろう。県西の「質実剛健」は、その直後の揮毫と思われる。まさに新境地を開拓するアバンギャルドの芸術家、前衛書家として既成の常識、概念と闘う中での書ではなかったか。現代書のパイオニアだったから、県西の生徒への願いとともに、「質実剛健」は上田自身の闘う姿勢の表明ではなかったか。歴史や伝統もいい。しかし、自分の力で新境地を開拓せよ、ぶれることなく進めと、単なる校訓というだけではない、上田桑鳩の県西生への呼びかけを、講堂の長椅子に坐して「質実剛健」の額を見上げる時、感じるのである。 (文・石戸信也)

上田桑鳩・毛筆書簡(1933年) 戦後の前衛的な字とは異なる(筆者所蔵)

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