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県西随想 ~県西歴史物語~


上ヶ原も「戦場」だった。

『回想録 西宮海軍航空隊』(上ヶ原文庫)という本が西宮市立図書館にあった。著者は園田昌一さんという方で、1994(平成6)年に「入隊五十年記念」として自費出版されたものである。この本は太平洋戦争末期の西宮・上ヶ原で特攻の練習をさせられた予科練の生活の回想録である。上ヶ原には戦後の1950(昭和25)年11月に県西が建石町から皆で机や椅子を運んで移転してくるが、その数年前の戦時中、敗色濃厚な昭和19年、関学をはじめとするこの上ヶ原がまさに「神風」特攻隊養成の「戦場」となるのである。すでに同志社や上智をはじめ全国のキリスト教主義の学校、ミッションスクールに対する日本政府の圧迫は、天皇の「御真影」礼拝、奉安殿建設、武道場への神棚の設置や、神社参拝の要求をはじめ、私学を狙い撃ちにする学生の徴兵猶予特典の廃止(つまり国策に従わないキリスト教系の学校の学生を兵隊に「優先的に」取り、戦地へ送る。猶予特典が無くなれば学生は集まらず私学は廃校の危機に陥る)、英語の授業を「敵性」であるとして禁止、監視するための配属将校の派遣、キリスト教を教えることの禁止、宣教師をスパイとして拘引、牧師を治安維持法違反で逮捕と、それは熾烈を極めていた。
 たとえば同志社は英語で「教育勅語」を教えるなどこれらに抵抗し、学問の自由を守るべくキリスト教神学を最後まで教え続けた。しかし、関西学院は、神学教育を一旦やめ、校舎の壁にあった英語のスクール・モットーは破壊された。現在、正門から正面に見える時計台はミュージアムになっているが、この破壊された英語の破片は学生が実家に持ち帰っていたようで、戦争の狂気を伝えるべく展示されたのを見たことがある。「抵抗の同志社、従順の関学」と言われたが、県西に近いこの関学が海軍に取り上げられた歴史は意外に知られていない。軍の要求に逆らえない暗黒の時代であった。
 1944(昭和19)年3月15日、海軍は関西学院中等部を接収し、三重海軍航空隊西宮分遣隊が設置される。回想録によれば、「数群の白亜の校舎は甲山を背に教会を取り囲む形で瀟洒な姿を見せていた」が、南半分にあたる中等部の敷地に「航空隊が使用する庁舎、士官食堂、第一兵舎、病舎、定員分隊兵舎の五つの建物の他、急造の通信講堂、第二兵舎、烹炊所等の付属建物が作られていた」という。現在、この関学には「平和よ永遠に」(裏面は「西宮海軍航空隊跡」)という、航空隊のあったことを示す石碑がある。そして「関学正門前の広大な松林は切開かれ、グライダー訓練場として整地は完了し、その中心を貫く道路は、七曲りを経て阪急甲東園駅に通じていた」のである。士官40数名、下士官約120名・指導練習生60名含む320名、そして1200名の少年兵が集められた。
「武庫の海原朝あけて  翠巒すいらん遠く六甲の  雲吹きるゝ上ヶ原
雄飛のちかひいや堅く  空の御楯みたてきほいたつ  我等は空の少年兵」
という西宮海軍航空隊歌まであった。まさに、県西は「神風」特別攻撃隊、つまり特攻の少年兵を養成する海軍施設の上ヶ原エリアに約6年半のちに移転してきたのである。
 今、関学の学生たちはこの歴史を知っているだろうか。また、県西の生徒や関学の学生たちは毎日、甲東園駅から七曲がりの道を上ってくるが、この傾斜した上ヶ原の高台が飛行訓練に適していたという戦争の記憶は誰も知らないだろう。また、空襲に来る米軍機を狙う高射砲が甲山にあったことも、西宮も大規模な空襲で一面焼け野原の焦土と化したことも、風化させてはならない記憶である。今津春風町にあった西宮市立商業学校(県西の前身)も1945(昭和20)年8月6日の早暁の空襲で全焼し、門の校名表札のみ残った。今も関学からのびる数本の道路の幅を見る時、当時の訓練機の両翼の全長を考えてみる。当時、「人生僅かに五十年、軍人半額二十五年、予科練志願は二十年」と言われたと回想録にある。敵艦への体当たり攻撃に出撃する「神風」などの特攻隊の若者たちは今の高校・大学生ぐらいの年齢であった。今、関学のキャンパスを抜けた奥の位置に上ヶ原八幡神社があるが、関学構内に隊内神社として設置されていた「神風神社」はここへ移され、元西宮海軍航空隊の関係者によってのちに作られた「雄飛之碑」がある。その横にはプロペラと錨が置かれている。先日、この神社を訪ね、宮司さんからお話をうかがった。「同期の桜」が歌われ、若者たちを特攻に行かせる訓練をしていた地は、戦後、大きく変わった。人々は平和の大切さを知った。やがて1953(昭和28)年、関学の正門前から県西・甲陵中へとのびる通りの両側に、近くに住む林勇氏によって自費で桜の苗木が植えられ、美しい桜並木に成長した。私自身、この県西の前の通りを初めて通った記憶は1970(昭和45)年である。上ヶ原は日本で二番目の文教地区とされ、のちに「学園花通り」というようなお洒落な名前もつけられた。今日も明るくはなやかな、たくさんの学生たちが楽しそうに笑い、話しながら歩いていく。戦後73年目の夏がくる。(文・石戸信也)
参考:園田昌一『回想録 西宮海軍航空隊』(上ヶ原文庫)1994年

上ヶ原八幡神社にある西宮海軍航空隊の「雄飛之碑」。関学構内の神風神社はここへ移された。「雄飛之碑」の横に置かれたプロペラと錨
県西正門前の「学園花通り」。 桜花爛漫

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