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県西随想 ~県西歴史物語~


県西の校歌の作曲者は?

2008年8月、大利根町立図書館に、埼玉県出身の作曲家・音楽教育家の自筆楽譜、愛用ピアノなどの展示コーナーがオープンした。県西の校歌の作曲者、下總皖一(しもおさ かんいち・本名:下總覚三 1898年3月31日―1962年7月8日)である。大利根町は合併で加須市となり、現在は利根川堤の防災ステ―ションに「おおとね童謡のふる里室」が設置され、彼の写真やこども時代の机、レコードや著書、作曲した全国約500曲の校歌の一覧などの資料が展示され、石戸は2017年1月、訪問して、この校歌作曲者の生地というゆかりの地で県西校歌を歌った。地元の観光大使の方にもいろいろご案内いただいた。利根川の「道の駅・童謡のふる里おおとね」には下總の立像も立っている。また、北浦和の県立近代美術館の公園内には彼の顔と「たなばた」の歌の石碑があり、加須市内の野菊の歌の公園前にある音楽ホールには彼のピアノも展示されている。彼は旧大利根町で生まれ、父・吉之丞の勤める学校まで1里以上徒歩通学した。学校でオルガンの音色に魅せられ、埼玉師範学校(現・埼玉大学)をへて、東京音楽学校(現在の東京藝大)で、信時潔(のぶとき きよし)に作曲を師事し、1920(大正9)年、首席で卒業。記念奨学賞を受けた。大正から昭和にかけ、各地(長岡・秋田・栃木)の学校で音楽の講師をつとめ、1924年には妻・千代子の改名を機に、覚三を改め皖一を名乗る。昭和7年にべルリン芸術大学に留学、パウル=ヒンデミットに師事。文部省在外研究員として作曲法を研究。2年後、留学を終え、神戸港に帰国。久しぶりの母国。六甲のやまなみを見て上陸。翌年に著した理論書「和声学」はドイツの恩師から激賞されたという。ヒンデミットは、ナチスをたたえる曲を作れというナチスからの圧力を拒否し亡命した気骨ある音楽家であった。
 東京音楽学校で師事した信時潔もかつてドイツに留学し作曲を学んでいる。信時は、1887年大阪で牧師の子として生まれ、教会の賛美歌を通して音楽にめざめた。東京音楽学校でチェロや作曲を学び(1級上に山田耕筰)、ドイツで作曲を学んだあと、帰国(1923年)して教授になり、下總らを育てた。兵庫では、神戸・長田・赤穂・作用・三原の各高校、また三木市立三樹小学校・加西市立北条小学校の校歌も作ったようだ。この信時に師事したのが県西の校歌の作曲者・下總である。
 下總は、東京藝大で対位法のドイツ音楽語法の先駆者になり、多くの人材も育てる。團伊玖磨、佐藤眞、芥川也寸志らが門下。1934年に助教授、1940年に文部省教科書編集委員、1942年に教授、戦後の1956年には東京藝術大学音楽学部長と、音楽教育の道を歩み、日本の近代音楽の基礎を作った。その間、「かくれんぼ」「ほたる」「野菊」「たなばた」「兎のダンス」「ゆうやけこやけ」など多くの童謡・文部省唱歌を作る。全国の小・中・高校の校歌も多く作り、総作曲数は2千曲以上といわれる。イチローの母校である愛知工業大学名電高校の校歌や、京都大学学歌や愛媛大学学歌も彼の作曲。「対位法」「作曲法」(音楽之友社)はじめ「日本音階の話」「作曲法入門」「楽典」「音楽理論」などの著書があり、作品には「三味線協奏曲」「箏協奏曲」もあるという。下總がいなければ日本の近代音楽は無かったとも言える。
 1950(昭和25)年、県西の校歌誕生。この年はまた作曲者・下總の「混声合唱曲集10巻」の出版の始まった年であった。2017年執筆(石戸信也)

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