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県西随想 ~県西歴史物語~


100周年を前に~”県西を救った男”の話

県西は来年、2019年に創立100周年を迎える。同窓会、PTAのご協力のもと、現在、この記念のいろいろな取り組みの準備が進められている。そんな中、先日、同窓会長から職員室の私に1通の封筒が届けられた。見てみるとそれは宝塚在住の、戦前の卒業生のご家族からで、最近、ご逝去されたため、遺品のアルバムから、県西の前身である西宮市立西宮商業学校の生徒の時代のさまざまな写真をはずし、寄贈していただいたものであった。今津春風町の校地跡は今、春風公園(バイカウツギの公園)になっているが、ここに立っていた校舎や正門、生徒たちや職員の集合写真、授業風景、体育大会、遠足の記念写真などである。昭和18年卒業の生徒の学校生活で、甲種(5年制)であるから昭和13年入学の方である。谷崎潤一郎の『細雪』にも描写が出てくる阪神大水害の年に入学し、在学中に真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発し、戦時下の学生生活であった。写真は、校地内の奉安殿、軍隊式行進の登校風景、正門に立つ歩哨、軍事教練や、軍服姿の配属将校、国民服・ゲートル姿の生徒たち、静粛な昼食風景、現在の須磨区落合に行っての実弾射撃訓練、伏見桃山御陵への参拝など軍国主義の暗い時代を伝える。右上の写真に写る今津春風町の校舎は、昭和20年8月6日早暁のアメリカ軍による空襲で全焼している。
 私は早速、同じ昭和18年卒業で西宮市内にご健在の方を探し、これらの写真を持参してご自宅を訪ねた。週末、何度か訪問してやっと出会え、招き入れていただきインタビュー取材ができた。写真を見ていただき驚いた。大正15年生まれ、93歳のこの先輩は、写真に写る同級生や先生方を指さし、その名前、ニックネームを次々にあげていくのである。写真の中の1枚に中川新吾先生が一人で写るものがあった。眼鏡をかけ、椅子に座り、ほほえんでいる。今の京大を出て宮商の教師となり、第4代校長となって戦時下の大変な時期に学校を支えた。のちに西宮市学務課長となる。敗戦。見わたす限り焼け野原の焦土と化した西宮。食糧難。アメリカ進駐軍の占領と各施設の接収。校舎を戦災で失った宮商は9月に今津小学校(六角堂)教室を借りたり、浜脇、建石と流転した。『県西80年のあゆみ』には、女学校(今の市西)のみを残し、宮商を廃校にするという占領軍のフィリップスと長時間交渉し、英語で存続を必死に訴え交渉する中川先生の苦闘が記録されている。
 『兵庫県教育史』(兵庫県教育委員会、昭和38年)にも、この「一市一校」方針の軍政部に対し、女学校とともに宮商(のちの県西)を残すよう、最後はフィリップスの軍服のすそにしがみついて主張した中川先生の奮闘が紹介されている。商業のみは認めないと見た日本側は普通科と合わせた新たな総合的な学校を提案し、ついにフィリップスは中川先生の熱意に「根負け」した。廃校の危機は乗り越えられた。絶大な力を持つGHQのマッカーサーと対等に渡り合った白洲次郎は「従順ならざる男」「日本を救った男」とも言われたが、ここ西宮でも占領軍と渡り合い「県西を救った男」がいた。自分はこれだけのことをした、こんなミッションをしたと誇る人間は多い。しかし、真に貢献した人物は謙虚で、歴史の見えないところにいる。「西宮市山手高等学校」さらに県立移管で「県西」になり建石から机・椅子を運び上ヶ原に移転した。そして来年、100周年を迎える。(石戸信也)

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