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県西随想 ~県西歴史物語~


冬の武庫川を駆け抜ける…伝統のマラソン大会

2月1日、今年のマラソン大会が武庫川河川敷で開催され、生徒諸君は快晴の冬空のもと、元気に力走した。男子の完走(10km)は、277名。女子の完走(5km)は、390名。この大会は、「坂本直子杯」の名を冠しており、男女それぞれ、優勝した生徒にこの杯が授与された。県西の陸上部出身で、フランスの世界選手権での活躍をはじめ、アテネ五輪の女子マラソンに日本代表として出場し、7位入賞と健闘した坂本直子さんに由来するのは言うまでもない。マラソン大会を実施する高校は多いが、オリンピック選手の名前を大会名に冠した学校は稀有であろう。練習していた一般のランナーの方から、「県西は駅伝が強く有名ですが、専門の選手だけでなく、一般の生徒もよく走りますね。」と、おほめの言葉をいただいた。六甲のやまなみを背に丸くそびえる甲山を遠く望みながら、多くの仲間と武庫川を駆けた体験は、「質実剛健」の人間形成の上で、大きな自信になり、また高校生活の良き思い出にもなったであろう。
 神戸・阪神間で、マラソン大会や持久走はいつ頃から開始したのであろうか。慶応3年(1867)12月7日、新暦1868年1月1日に神戸が開港したが、居留地に来た外国人たちは、さまざまなスポーツをもたらし、特に明治3年(1870)9月に創設されたKobe Regatta & Athletic Club(KRAC)は、陸上競技・ロードレース・徒歩競走・ボート・ヨット・ラグビー・クリケット・テニス・野球・水泳・水球などのスポーツを神戸にもたらした。また、ゴルフや登山も開始する。このKRAC創立と発展に貢献した英国人A・C・シムは、居留地の外国人の生活向上に尽力しただけでなく、競走・ボート・ハンマー投げで活躍し、多くの人に尊敬されたスポーツマンだった。『居留外国人による神戸スポーツ草創史』(棚田真輔著.道和書院.1976)によれば、明治5年(1872)4月、居留地から海抜600mの摩耶山天上寺までの14,484mの競走で(山の急坂と260の石段を含む)、1時間24分30秒で往復し優勝している。すごい記録である。明治34年、彼の死を悼んだ人々が記念碑を今の神戸市役所南側の東遊園地(ルミナリエの終点の公園)に建て、服部一三県知事など参加し除幕式をおこなった。この記念碑は現存する。三宮を訪ねることがあれば、この英語・日本語両方で記された記念碑を見に行ってみよう。
 さて、明治4年(1871)4月にはKRACの第1回競技会が生田神社近くで開催されたが、神戸・阪神間の陸上競技大会の開始だろう。A・C・シムら居留地の外国人の陸上競技・ロードレース・徒歩競走は、ラグビー・フットボール・野球・テニス・登山など他のスポーツ同様、すぐに神戸・阪神間の学校に影響を与え、日本人も模倣して始めたと思われる。師範学校や神戸高商(神戸大学の前身)は長距離走大会をおこない、実況の絵葉書も作った。明治42年には大阪毎日新聞社が神戸・大阪間の「マラソン大競走大会」(優勝賞金300円)を開催し、408人が申し込む。在神戸アメリカ領事は「日本は士気盛んで尚武の国柄なのに、なぜ今まで、マラソンレースのような美しい歴史の事蹟の伴った体育奨励方法が催されなかったのか」と語ったと前述の文献には紹介されている。近代的なマラソンブームが開始したのである。
 県西の歴史をひもとくと、兵庫県武庫郡町立西宮商業補習学校として創立されたのは大正8年(1919)。この西宮商業補習学校は、西宮第一尋常高等小学校に併置の開校であるから、小学校の運動会に参加もしたようだ。「80年のあゆみ」の生徒会沿革史では、この創立直後、大正10年(1921)から、年1回、西宮・芦屋間を往復するマラソン大会を実施していたことが述べられている。(ちなみに箱根駅伝は大正9年に4校で開始している)。このような活動は運動部を誕生させ、陸上・野球・庭球・山登りの同好会的な組織が生まれる。第1回マラソン大会の優勝者は、新聞配達をしていた健脚の生徒だったという。また創立翌年から、山登りの会は、夙川から六甲などを数回、縦走している。健脚の生徒がかなりいたのであろう。その後、昭和初期には、校地が狭い中で、海岸などで練習していた陸上部が、市内の連合青年団の対抗の大会で活躍した。さらに戦前、春風町から宝塚大橋を往復する「耐久競技」もあったらしい。戦後は、県立となった当初、昭和20年代後半から30年代前半の各運動部の「黄金時代」へとつながる、「文武両道」の伝統が連綿と形成され、先輩から後輩に受け継がれていく。さて、私は1974年に入学したが、全生徒・教職員が弁当を持って県西を出発し、甲山から鷲林寺、ゴロゴロ岳や芦屋の奥池、東おたふく山から金鳥山、保久良山へと六甲を縦走して夕方、阪急岡本駅に到着し解散という行事もあった。高校時代、よく歩き、そして陸上部員だったので、よく走った。「ひたむきに挑戦する」ことこそが、青春のあかしである。 2011年2月7日執筆 (石戸 信也) 

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