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県西随想 ~県西歴史物語~


甲東園 ~ 県西 ~ 大阪 ~ 明治村を結ぶ物語

県西のある、西宮市の上甲東園、上ヶ原を中心とする地域は全国的に有名な文教地区と言われる。昭和33年、東京の国立市に続き、日本で2番目の文教地区となったと、本校の前の、甲東公民館側の道路に説明表示がある。そして3万人の学生、生徒、園児の学ぶ一大文教地区と紹介されている。この説明表示に、「この地」を開拓したのは芝川氏と出ているが、この芝川家と甲東園、県西、そして大阪や愛知県犬山市の博物館明治村を結ぶ物語を見てみよう。
 前号のクラス通信で述べたが、県西の現在のキャンパスの誕生を語る時、また、「甲東園」を語る時、芝川氏のことにふれないわけにはいかない。もともと芝川家は大阪で商家として誕生した。大阪の伏見町に唐物商「百足(むかで)屋」を開業した先代のあとを継いだのが、2代目芝川又右衛門氏。唐物商というのは、今なら輸入業で、たとえば江戸時代の大坂を描いた『摂津名所図会』を見てみると、伏見町には、「疋田(ひきだ)蝙蝠(こうもり)堂」という唐物商が描かれており、長崎からもたらされた、オランダのワイン瓶や、平賀源内で有名なエレキテルや、珍奇な商品をところ狭しと並べている。この様子は大阪市立住まいのミュージアムに再現されている。「唐(から)」は、中国という意味ではなく、外国・舶来を意味したのである。たとえば、最近の製薬会社にいたるまで、大阪の道修町に薬屋が多かったように、伏見町には江戸時代から唐物商が多かったのであろう。海外の文化・情報にいち早く接する進取の場所で芝川家は輸入業を始めたのである。この又右衛門(隠居後の名は又平)氏は豪商となり、明治初期には三井八郎右衛門、住友吉左衛門らと並び有名になった。さらに土地売買など事業を拡大、明治17年(1884)、甲東村の土地を購入する。
 芝川氏は明治29年(1896)、甲東園を果樹園として開拓し、明治44年には別荘を作った。日本庭園や茶室などもつくり、関西の著名な財界人・文化人を集めて交遊している。大正2年(1913)の盛大な茶会には、朝日新聞社長の村山龍平や、住友吉左衛門、嘉納治兵衛らが参加した。大正10年(1921)に阪神急行電鉄西宝線(阪急今津線)が開通したが甲東園に駅が無かったので、又右衛門は、阪急に駅設置を依頼し、その費用と土地一万坪を阪急に提供したという。駅名は当初「甲東園前」だった。この土地が甲東園一帯の開発の開始。この2代目又右衛門(芝川得々)が「甲東園」の名付け親だった。県西周辺は芝川柿や桃の果樹園。又右衛門の子の長兄は又三郎。次兄は又四郎。この又四郎は昭和2年、大阪の伏見町に南米マヤ・インカ風の装飾のビルを竹中工務店により完成させたが、このモダンな「芝川ビル」は現存する。近くを訪ねたら外観を見に行ってみよう。また、三男の又之助は甲東園や須磨で昆虫採集し(須磨にも芝川邸があった)、研究した。しかし27歳で早世し死後、貴重な昆虫標本は甲東園の芝川家別荘に保管された。これは宝塚昆虫館に移され、さらに昭和54年に大阪市立自然史博物館に移される。又右衛門は明治44年(1911)、上甲東園に数寄屋の和風の伝統を取り入れた洋館の別荘「芝川邸」を、武田五一(1872-1938)の設計で完成させた。武田は欧州留学後、戦前の関西の建築界をリードし、京都帝大に建築学科を創設した人物である。この県西の近くにあった重要文化財級のモダンな近代建築は、阪神淡路大震災で煙突部分が倒壊して解体され、残念ながら現場保存できなかったが、愛知県犬山市の博物館明治村に寄贈され、約10年かけて復元された。平成19年9月より明治村で公開されている。私も公開が開始された時、見に行った。県西の近くにあった素晴らしい阪神間モダニズムの建築である。機会があれば見学に行こう。
 県西が今のキャンパスを作る時、芝川又四郎氏の厚意を受けた。県西の桜も甲東公民館の梅林も芝川氏が一本一本、大切に植え、愛情を注いで育てたから、「桜や楠の樹木を切らない」ことを条件に、県西は今の広場を入手した。正門東に商店が来る話が出た時、景観上も良くなく、県西はこの土地を得ようとしたが困難だったところ、芝川氏側の厚意で学校裏地と交換。広場の土地は氏の厚意で安く入手することができたという。かつての芝川農園の所有地は、「憩いの広場」に造成され、正門から校舎へのびる美しい風景が完成したのである。  2011年2月2日執筆(石戸 信也)

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