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県西随想 ~県西歴史物語~


「県西体操」


台風一過の秋晴れ。六甲の緑の山並みと青空のコントラストが美しい。体育大会も目前となり、昼休みには、グラウンドでクラスの仲間と大縄跳びの練習をする生徒たちの掛け声や歓声が職員室に聞こえてくる。いよいよ体育大会だ。生徒たちも楽しみにしているだろう。あとは当日の快晴を期待したい。
 近代日本での「運動会」の始まりは、1874年(明治7年)3月に東京・築地の海軍兵学寮で、イギリスから来た教師の指導で開催された「競闘遊戯」(アスレチックスポーツの訳)の会であった。やがて各地の学校に広まり、明治・大正・昭和・平成と、内容は各時代の影響を受けたが、現代では、「体育祭」「体育大会」「陸上競技大会」など名称も内容も学校により、さまざまである。現在、「体育大会」と呼んでいる県西も、かつては「体育祭」と呼んでいた。たとえば昭和31年から34年まで在学した第11回生のアルバムを見てみると、仮装行列(赤穂浪士の衣装など)や、シルクハットに高下駄の応援リーダーのパフォーマンスなど、まさに「祭」の要素があり、このような学校行事の前に「前夜祭」としてファイヤーを囲むこともあった。旧制高校のバンカラな学生生活の気風の影響がまだ残っていたのであろう。昭和40年代末から50年代はじめは、デコレーションを製作し、各クラスの応援席に置いたこともあった。
 ところで、体育の授業や体育大会で「県西体操」がおこなわれてきたが、この「県西体操」は、いつ、どのように始まり、受け継がれてきたのだろうか。29回生(昭和49年、1974年入学)の私も、もちろん、この「県西体操」を知っているが、その由来を調べてみることにした。いったい、いつ頃から、「県西体操」はおこなわれてきたのだろうか。
 そこで、調べると、かつて県西に勤めておられた保健体育の先生から証言を得ることができた。県西の卒業生でもある中嶋勇先生は、1955年(昭和30年)に就職され、母校に赴任された。そして、体育の授業で県西は準備運動が無く、何か体操があればいいなあと考えられた。のちに、昭和36年頃、着任された東先生と相談して、何か「体操」を作ろうということになり、中島先生は恩師の永原先生に相談することになった。当時、体育の先生は、男性の永原先生、岩地先生、中嶋先生、東先生、女性の井上先生の5名であった。永原先生は昭和30年以前からおられて、その頃は時間講師であったが、「では、県西体操というのを作ってみたら?」ということになり、若い東先生(のちの畑中先生)を中心に中嶋先生・永原先生の3人で考えて体操ができあがった。そして修正をして昭和37~38年頃に完成したのである。しかし、のちに、音楽が無く、やはりラジオ体操のような曲があればということになり、担任をしたことのある女子に(大阪音大に進学)、メロディーをつけて、と依頼した。そして当時の保健体育科の他の先生(喜田先生、山際先生)と中嶋先生の3人で音楽室のピアノの前で「県西体操」を実際にやって、ピアノの曲をまさに即興でつけてもらった。昭和43年頃のことであろう。テープレコーダーに録音し、何度も体育の授業の始めにテープレコーダーを持っていったとのことである。
 その後、50年間、毎日のように授業などで「県西体操」は受け継がれ、多くの生徒の成長を支えた。ちなみによく知られている「ラジオ体操」は、戦前の1916年(大正5年)に国営の簡易保険事業が開始され、旧逓信省簡易保険局が作った「国民保健体操」が源流といわれるが、いろいろな変遷をへて、今のラジオ体操第1が制定・放送されたのは1951年(昭和26年)5月であった。翌年にはラジオ体操第2の放送が始まる。今の「ラジオ体操の歌」が発表されたのは1956年(昭和31年)3月である。「県西体操」が作られた時期は、どんな時期だろうか。昭和37年に全国ラジオ体操連盟ができたり、1000万人ラジオ体操祭が始まり、昭和38年には耐寒ラジオ体操会が開始するなど、それは、ラジオ体操が普及していく時期である。他の高校や中学校でもこの時期にいろいろな体操が制定されたであろう。そして、昭和39年(1964年)東京オリンピックが開催され、県西には45周年記念として建てられたクラブハウスの壁に「1964」の鉄文字が飾られるのである。
 「県西体操」の内容について、中嶋先生にうかがうと、以前から存在したような、大学や他の高校の体操を模倣したものではなく、先述のように、まったくの、県西オリジナルの考案であった。保健体育科の先生方が相談しながら協力して内容を作り上げ、卒業生がピアノで曲をつけたということであるから、まさに先生たちと教え子の努力による合作であった。そうして誕生した「県西体操」は半世紀をこえ、県西の伝統の一つとなったのである。
(石戸信也)

1955年(昭和30年)卒の第5回卒業生のアルバムより、「体育祭」(上下とも)。
まだ、県西体操は生まれていない。周囲は緑が多く、住宅も少ない。

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