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県西随想 ~県西歴史物語~


県西古墳の古代ロマン

歴史ブームは続いており、特に古代史のファンは多い。女王・卑弥呼の邪馬台国が九州だったのか、畿内だったのかの論争をはじめ、古代史はまだまだ多くの謎を秘めていて、人々を魅了するのだろう。県西のある上ヶ原も、まさに要衝の大阪湾を眼前に望む台地で、古代より幾多の人々の生活の場面になってきたに違いない。六甲山は大阪側(難波・なにわ)から見て海の向こう側の「むこうの山」で、この「むこう」が「六甲」や「武庫」の語源になったという説もあるが、いずれにしても、摂津の西宮のエリアが、政治・経済・文化・軍事の中心の大阪(難波)・奈良(大和・やまと)に近く、畿内勢力にとり重要拠点であったことは言うまでもない。約20年前でも兵庫県内の古墳は大小合わせると約7000あったと言われ、開発による破壊や、また逆に新たな発見でこの数に増減があったにせよ、兵庫が古墳や遺跡の多い県で、神戸市東灘区・芦屋から西宮、宝塚にかけても幾多の古墳・遺跡が存在することは知られている。県西の周辺も仁川の五ヶ山古墳群など遺跡は多いのである。
 上ヶ原にある二つの大きなキャンパス、つまり県西と関西学院は意外なある共通点がある。それは何だろうか。実はどちらも校地内に「古墳」が存在するのである。いわゆる「関学古墳」は、キャンパスの仁川側、洋館の続く道を甲山方面へ抜けていく道の途中にある。フェンスに囲まれた、小高く丸い森のように見える。昭和49年3月に西宮市指定史跡になった、直径12mの円墳で、南側に開口し、横穴式石室である。(玄室の長さ4,74 m。玄室の高さ2,4 m。幅1,2 mの羨道が長さ5 m。奥壁の幅は1,5 m)。埋葬のための玄室の石材は、花崗岩。副葬品としては、金環5、滑石製の勾玉、琥珀製の棗(なつめ)玉2,碧玉製管玉7,水晶製切子玉6,ガラス製小玉35,鉄鏃4,革帯の金具片1,須恵器も完形で出土し、遺骸も一部出たようである。注目すべきは馬具・装身具であろうか。「騎馬民族国家説」のように、大陸の先進的な文化を持った集団の勢力下に入っていたのであろうか。築造年代は7世紀と説明されている。副葬品の多様さから、地域の権力者の可能性がまず考えられる。
 さて、一方、通称「県西古墳」は、1953(昭和28)年に宅地造成のため撤去され、多くの人々の理解と努力で県西構内に移設された。もとは甲陵中学の西北方の道路隔てた場所にあったという。推定では直径17 m、高さ1,5 mの円墳。内部に小さな石室があるが、そこに至る羨道が無く、直接、開口している。床面は長方形で奥行き2,3 m、幅66㎝。大きな玄室は持たないが、やはり横穴式石室の古墳で、花崗岩であり、近隣の仁川の石も使用したらしい。遺骸や副葬品はすでに無く、発掘中に土師器の小片が少し出たという。上ヶ原は古墳時代後期の横穴式石室が広く分布する地域だった。この「県西」古墳はその一例だろう。被葬者はどんな人物だったのだろうか。距離の近い「関学古墳」と「県西古墳」の関係はどうだったのだろうか。ともに見上げる甲山(309,4 m)は信仰の対象であっただろうし、この山からは昭和に青銅製の武器も発見されている。
 埋葬施設である古墳の羨道は、遺骸を安置する石室と外部を結ぶ道。つまり、現世と、死者の世界である「黄泉国(よみのくに)」とを分ける。日本神話に、埋葬されあの世に旅立ったイザナミに会いたくて訪ねたイザナギが、見てはならない約束を破り、闇の中で明かりをともし、腐敗した死体のイザナミを見てしまったばかりに激怒したイザナミに追いかけられ、黄泉国から葦原中津国(地上)へ逃げ帰る話がある。途中、大岩で道をふさぎ、難を逃れるのである。日食を思わせる話で、天照大神(アマテラスオオミカミ)が弟に怒り、洞穴に隠れて蓋をしたのは「天岩戸(アメノイワト)」。大きな石で二つの世界の境界(羨道の開口部)をふさぐというのは横穴式石室の発想であろう。万葉集(巻3/419)に「石戸(いわと)割(わ)る  手力(たぢから)もがも たよわき をみなにしあれば  すべのしらなく」という歌がある。あなたがお隠れになった岩戸を割る手力が欲しい。わたしはかよわい女なので、なす術も知りません、という意味である。死別した愛する人に会いたいが会えないという哀しい想い、切なさが古代から伝わってくる。そういえば、蛇足ではあるが、今、これを書いている私の名前も「石戸」である。さあ、一度、県西の古墳を見て古代の人々の思いを想像してみるのも良いだろう。 2010年執筆(石戸 信也)

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