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県西随想 ~県西歴史物語~


県西の制服デザインは、いつから?

「先生、県西の女子の制服(冬服のセーラー服)、いつからこのデザインですか?」と生徒や保護者に聞かれることがある。自分が入学した昭和40年代~50年代初めの写真やアルバムを見ても同じだ。紺色スカーフを結ぶ女子の濃紺の制服は数十年変わっておらず、県西の伝統といってもいい。祖母・母・娘と3代、同じデザインを着てきたという生徒もいるかも知れない。この制服はいつからか、よく質問がある。
 戦前の男子だけの商業学校時代以降、県西の男子は、詰襟学生服に制帽という流れがあった。前に校章の付く制帽は現在無いが、この制帽をかぶり通学した出身教職員もいる。男子の学生服は襟に学年色の校章。胸は校章入りボタンが5つ。戦前、現在の東京大学など多数の学校が立襟で5つボタンのチュニック(陸軍式)を採用していたため、詰襟学生服のボタンは5つなのだろう。そして敗戦後、GHQ・軍政部による教育改革・民主化の指示の中で男女共学の実現が求められ、県西は共学になる。
 そこで古い写真を見てみる。昭和26年度の卒業アルバムに写る男子は戦前同様、制服だが、女子生徒の服装はばらばらで私服。28年のアルバムでは女子は現在の制服になっている。28年卒のHさん(甲東国民学校、甲陵の前身の甲東中学校、県西卒)に数枚の写真を見せていただく。25年9月京都清水寺の遠足の集合記念写真では男子は制服制帽、女子は私服。26年5月の校舎玄関前の集合写真では男子は制服制帽、女子は私服。しかし27年3月の校舎前集合写真では女子は今の制服で写り、5月の修学旅行(皇居二重橋前)集合写真でも女子は今のデザイン。25年に入学し28年卒業のこの第5回生の女子生徒だったAさんのお話では、26年、つまり2年の夏に女子が集められ、制服のデザイン(セーラー、ブレザーなど)について希望投票があった。家庭科の井上豊子先生の説明があり、県立第一神戸高等女学校のデザインを参考にしたようで、セーラーの3本の線は「知・情・実」を表したという。この3本線は、今も夏服の袖口にもある。この昭和26年夏、夏服が開始し、セーラーは秋からだったという。27年卒業の第4回生は制定から卒業まで日数が少なく注文しなくても良かったようで4回生の卒業アルバムでは女子は1名を除き誰も新しい制服は着ていない。(第3回生は男子のみ)。第6回生は入学時には制服は間に合っておらず、26年の新学期の演劇部集合写真では、多数だった1年は私服。翌27年新学期の集合写真は、ほぼ全員の女子が制服を着用している。県西女子のセーラー服は昭和26年夏に制定され、同年秋、開始したのであろう。
 セーラー服はイギリス海軍をはじめ世界中の海軍の軍服として使われ、19世紀後半から子供服や女性の服としても流行した。水兵の象徴の服でポパイも着ているが、一方、ブレザーも英海軍の軍艦ブレザー号の乗組員制服に由来する。日本では旧海軍が明治初期にセーラー服を制服として決めたが、女子生徒の制服としては、福岡女学院の校長エリザベス・リーが洋品店に依頼し、試行錯誤のあと大正10年に採用されたのが初期の例という。戦後、ブレザーに変更したり、ブランドデザイナーに依頼する学校も出た。一方、セーラー服を続けた学校もある。自分の学校の制服を正しく着て、その歴史に誇りを持つことも大切だろう。 2014年執筆(石戸信也)

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