〒662-0813 西宮市上甲東園2-4-32
Tel 0798-52-0185 Fax 0798-52-0187

  1. ホーム
  2. 県西随想
  3. 県西のルーツ … むかしのハイカラ校舎 ①

県西随想 ~県西歴史物語~


県西のルーツ … むかしのハイカラ校舎 ①


県西はその90年を越える歴史の中で、その時代、時代の状況で、校地を何度も移転し、また校名も改称して変遷を重ねてきた。生徒手帳の「沿革」(学校の歴史)にもその概略が紹介されているので見てみよう。大正8年(1919年)、すなわち第1次世界大戦終了の翌年に、武庫郡町立西宮商業補習学校として西宮第一尋常小学校に併置・開設して以来、大正11年7月1日には西宮町立商業実修学校と改称し、さらに大正14年には市制にともない、西宮市立商業実修学校に変わった。「80年のあゆみ」には、「西宮商業補習学校」時代の大正9年~大正11年3月までの賞状や卒業証書の写真が掲載されている。また、昭和3年に六湛寺町にモダンな新市役所が竣工したので、久保町の旧市役所を改修し、実修学校の校舎として再利用することになったと紹介されている。安井尋常小学校に仮住いの後、久保町の旧市役所に移転した。このことを設立11年目にしてやっと独立校舎を持ち得たとも述べられている。昭和4年4月1日のことであった。現在、久保町を訪ねると、白鹿など宮水の酒造会社の集まる街の近くの交通公園の西側入口に、創立75周年を記念して県西の同窓会により建立された「創立75周年植樹記念之碑」(1993年11月)という大きな石碑を見ることができるので、ぜひ一度見に行ってほしい。県西のルーツの一つなのである。
 この久保町にあった、旧市役所だったという校舎がすごい。もし現存していたら重要文化財などの指定は間違いない貴重な近代洋風建築である。もともとは文明開化華やかなりし頃、明治9年に西宮小学校として建設されていた、今の言い方なら「異人館」風の校舎。屋根の上には、六角の塔(太鼓楼)がそびえ、2階正面にはヴェランダの柱廊と欄干、2階正面出入口には赤い色ガラスが残っていたらしい。旧玄関正面の「登龍門」の額はすでに外されていたと「80年のあゆみ」では出ており、この「西洋造りの浜の学校」と呼ばれていたハイカラな校舎の模型(42回生 3-8提供)の写真も掲載されている。明治期の西洋風の建築を「擬洋風建築」と称するが、神戸の異人館にしても実は日本人の棟梁や大工が、居留地で見聞した本格的な西洋建築を見ようみまねで独学で模倣し、瓦屋根など伝統的な和風建築の技術も使いながら、新しい時代を象徴するハイカラな建物を生み出した。このことは拙著『神戸レトロ コレクションの旅』の第5章、「神戸の異人館の源流」を参照してほしい。西宮では白鹿の旧辰馬喜十郎邸(明治22年)が現存し、2階のヴェランダの柱廊と欄干が美しい。久保町のハイカラな校舎と同時期の建築というと、たとえば県内では三田に現存する旧九鬼家住宅(明治8年頃)も2階のヴェランダが美しい。これらの和洋折衷とも言うべき擬洋風建築は、新しい時代の変革を迎え、近代化を急ぐ明治の人々の、ハイカラな洋館へのあこがれを伝えてくれる。県西のルーツの久保町の校舎が現存していれば今の生徒が見学できるのにと残念でならない。
 全国に残る明治初期の学校建築、特にハイカラな擬洋風建築の校舎をたくさん訪ねたことがある。たとえば、長野県松本市の旧開智学校(明治9年。国重要文化財)や、静岡県磐田市の旧見付学校(明治8年。日本最古の木造洋風小学校。国指定史跡)、山口県岩国市の岩国学校(明治5年塔屋追加。山口県有形文化財)、滋賀県近江八幡市の旧八幡東学校(明治10年。国登録有形文化財。現白雲館)など、ほぼ現存、また修築保存の洋風学舎は多い。多くはヴェランダや塔(太鼓楼)、ステンドグラス風にした色ガラスなどで「洋風」を演出している。久保町の校舎同様、玄関の上部や破風に華麗な装飾をつけることも多い。開智学校の、正面玄関上に向かい合い「開智学校」の額板を支えるエンジェルや、地元の人々の教育への期待による篤志で寄贈されたであろう色ガラスの窓は、まさに「明治」という時代をわたしたちに語る。全国の明治のハイカラ校舎を訪ね、時には屋根の上の塔の中に登らせていただいたが、各地でわかったことは、多くの市民の寄付で竣工した校舎が多いということである。県西のルーツ、久保町の校舎もその一つだったかも知れない。すでに老朽化していたとはいえ、まさに進取の精神の象徴の学舎で学べたのである。 2010年12月13日執筆(石戸 信也)

このページのトップヘ