学校長より
洲本高等学校 校長
越田 佳孝
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今年は本当に暖かいお正月でした。12月23日から昨日までの冬休みの間、誰ひとり事故もなく、健康で過ごせたと聞いています。今日から3学期。4年生と3年生の3修制の人は洲本高等学校定時制での生活も少なくなってきました。充実したものにしましょう。
洲本高等学校の定時制は、昭和23(1948)年の発足以来、70年の歴史を刻んできました。みなさんの多くが仕事やアルバイトをして働いています。定時制は、仕事やアルバイトで働いている人のための学びの「場」です。そして、これまで何らかの事情で学校に行くことができなかった人たち、何らかの事情で通っていた高校をやめてしまった人たちのために、再び高校での学びの「場」を提供するところに意味があります。そういう意味で、いろんな考えや事情を持っている、多様な人たちに「開かれている」学校であるのです。
現在は、「開かれていること」が重要な意味を持つ時代です。「開かれている」とは、「誰にでも開放されている、閉ざされていない」ことを意味します。地位や身分、置かれている家庭環境、そして才能や能力によって妨げられないことを意味します。学校に関していえば、その人がどういう人なのかによって「学ぶこと」が妨げられたりしないということです。洲高の定時制を例にとると、いろんな人がいます。考え方が違う人がいるのは当たり前、中には気にくわない人もいるでしょう。しかし、自分が気にくわないからと言って、その人が洲高定時制で学ぶことが妨げられていいはずがありません。この学校では、それぞれの人を認め合ってきています。「学ぶ」という一番大切な部分で「仲間」だからです。
現代は「開かれていること」が重要な意味を持つ時代ですと話したのは、現在の社会では、自分とは価値観や考え方の違う人に対して、声高に批判して、相手に反論することも許さず、圧倒してしまおうという風潮が蔓延しているからです。「ことば」がどんどん過激になっていっています。特に「政治」の世界ではひどいものです。正確に、というよりも誤解のないように、論理を尽くして、証拠を提示して「ことば」によって相手と対話をしていくという教養人として最低限の「振る舞い方」が、「まどろっこしい」、「決められない」としてさげすまれる傾向もあります。「俺のテーブルの上には核のボタンがある」といえば、「俺のボタンの方が大きくて、強力だ」と言い返します。まるで子どもの喧嘩です。そこには、自分と価値観や考え方を異にする人に対して「開かれている」という意味での「寛容さ」、教養人として最低限身につけておくべき「振る舞い方」が微塵も見られません。
「寛容さ」は知性を表わします。「本当に強い人」は「力」を誇示したりしません。勉強が出来るなどは「寛容さ」に比べられません。私たちは、数学の公式、英語の単語をとおして、人間として大切なものを身につけるために学んでいます。新しい年しっかり学びましょう。
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