オナラの芸で成功する翁と、それを真似て失敗する隣りの翁が、京の都を舞台にくりひろげるドタバタ劇を描いた「福富草紙」。この原本となる絵巻物は、室町時代の15世紀半ばにはすでに成立していたと考えられており、それ以来およそ400年にわたって描き写されてきました。
この転写の過程で、「福富草紙」にはさまざまなバージョンが生みだされました。一番大きな違い、つまり上下二巻で構成され、セリフのかけ合いで物語が進行するか、二巻のうち下巻のみで構成され地の文章がメインで物語が進行するかで、二系統に大別されます。
まず、制作時期の古い作品の分析を通して、絵巻物として「福富草紙」が成立した当時の事情を探ってみましょう。
伝本のなかで群を抜いて古いのが、二巻本系統である春浦院本とクリーブランド美術館本です。
絵画様式などから、両者ともおおむね15世紀半ば頃の制作とみられ、クリーブランド美術館本のほうがやや遅れるのではないか、というのが大方の意見となっています(*01)。ともに絵師や詞書筆写の署名はありません。ですが、先行するすぐれた絵巻物「石山寺縁起絵巻」や「融通念仏縁起絵巻」と類似した図柄を描くことが指摘されており、作者は同じ人物か弟子筋にあたる人物かと推測されています(*02)。
一方で、この最古本である春浦院本とクリーブランド美術館本にも、絵画モチーフや詞書の語句等に脱落があることから、どちらも原本ではなく転写本「福富草紙」であると考えられています(*03)。
ちょうどこの頃、二巻本「福富草紙」の冒頭にあたる詞書が、貞成親王(1372~1456)によって筆写されています(*04)。宝徳4年(1452)より少し前のことで、彼はその当時在位していた後花園天皇(1428~1364)の父にあたります。
ほぼ同時期には、二巻本「福富草紙」の主人公である高向秀武の娘が、老いた尼となって(父親が放屁の芸で活躍したあたりの年齢でしょうか)、別の絵巻物に登場しました。オナラを競いあう「放屁合戦絵巻」(サントリー美術館蔵)という絵巻物で、文安6年(1449)五月日の本奥書があります(*05)。
なお「放屁合戦絵巻」は、「勝絵」、「屁合戦絵巻」、「放屁之巻」、「放屁軍」などの別名をもつ絵巻物です。国文学研究資料館「日本古典籍総合目録データベース」を参照すると、類本は早稲田大学図書館、東北大学付属図書館(狩野文庫)に所蔵され、作者は鳥羽僧正覚猷とも定智とも、また成賢とも伝えられます(*06)。
時代は下りますが、兵庫県立歴史博物館所蔵「神農絵巻」(江戸時代)もこの屁合(へあわせ)の系譜に連なります。
ともかくも、オナラをめぐるこうした荒唐無稽な絵巻が、15世紀半ば頃には、文化的枢軸を担った権力者たちの間である程度広く、享受されていたのです。
仮に高向の秀武(二巻本「福富草紙」の主人公)と娘(「放屁合戦絵巻」の脇役)の年齢差を仮に30歳とすると、「放屁合戦絵巻」の原本が成立した文安6年を遡ること30年前、15世紀初期には祖型「福富草紙(いわばα版)」が成立していたか、あるいはさらに遡る可能性があります。
15世紀半ばに制作された最古本の春浦院本とクリーブランド美術館本ですが、同じ二巻本の系統とはいえ、じつは小さな差異があちこちに認められます。
たとえば、第5場面での物見に走る狩衣姿の男性の有無(*07)、第4場面での中将殿の屋敷の「板戸の上に付けられた黒い飾り」が斜め格子か割り菱か、第6場面での大路の店棚の暖簾の文様が笹か橘か、第12場面での医師の屋敷の網代垣の有無(*08)が、すでに先行研究で指摘されています。
図様をじっくりと観察してみると、このほかにも第1場面でのまな板の上に揃えられた箸の向き、第5場面での薄の籬の有無、第6場面での井戸の選択場や流水の有無、第10場面(兵博乙本では第13場面)での市女笠の有無に、違いがあることがわかりました。
これらの小さな差異は、その後に転写された伝本にも律儀に描き写されており、二巻本系統はさらに分類できることになります。
そこで『国書総目録』や「日本古典籍総合目録データベース」の記載内容を手掛かりに、それぞれの系統ごとに分類を試みました。インターネット上でオープンデータ化(公開)されている作品を中心に掲げると、次のようになります。
以上、諸本の総数から見ると、二巻本の春浦院本系が圧倒的に多数であり、主流であったことがわかります。
クリーブランド美術館本は、明るい賦彩や張りのある的確な線描に、絵師の技量の高さがにじみでる優品です。ですが先にあげた通りその模本の数は少なく、いずれも江戸時代後期の制作と推定されます。
手本となるクリーブランド美術館本は筆者不明、それを写す江戸時代の絵師もすくなくとも職業身分としての絵師ではありません。
ちなみにフランス国立図書館本の筆者は慈光寺実仲で、彼は公家であり、画風の類似から早稲田大学所蔵「文観阿闍梨絵巻」(江戸時代後期)の筆者ではないかと推定されます(*09)。
そのほかクリーブランド美術館本系には、江戸時代の模本である東北大学付属図書館本や個人蔵本(文政4年〔1821〕銘)(*10)のように、「福富画本妙心寺海福(寺)院秘蔵詞書宸翰ノ某卿画ト云々」と奥書されるものがあります。詞書は天皇宸筆だけれど、絵は某卿で、潔く絵師不明のまま貫かれています。
これはクリーブランド美術館本が、権威的な絵師の伝承を必要としなかったことを暗示しています。
また、上巻が付属していません。おそらくクリーブランド美術館本は、もともと下巻だけで独立していたか、あるいは早くに上巻を散逸して零本となったのだろうと、推測されています(*11)。
それでも大阪大谷大学本やフランス国立図書館本などは、下巻の図様はクリーブランド美術館本系を写し、上巻にわざわざ春浦院本の写しを補って、上下二巻を揃えているのです。
模写された数が少ないとはいえ、珍重されたことがうかがえます。
このクリーブランド美術館本は、冷泉為恭(1823~1864)や益田孝(1848~1938)の旧蔵と考えられます(*12)。それ以前の来歴については、東北大学付属図書館本や個人蔵本の奥書から、妙心寺の塔頭である海福(寺)院に秘蔵された、と推定されます。
個人蔵本の奥書には、さらに「文政四年辛巳十月日野々山維山異本借覧校合/藍河(花押)」とあります。「野々山維山」が「野々山緱山」の誤記だとすれば、春浦院本系である国立国会図書館本のツレの下巻(所在不明)を借りて、詞書を校合したことになります。
江戸時代後期には、塔頭は春浦院と海福院と違うけれども、妙心寺に春浦院本とクリーブランド美術館本系の、2種類の「福富草紙」が存在していたようなのです。
そしてクリーブランド美術館本は、原本の筆者像に拠るのではなく、春浦院本とは異なる特徴がある点で、珍重されたのだと考えられます。
さて、二巻本系統から派生した一巻本ですが、クリーブランド美術館本系から分岐したことが判明します。公開された画像をつぶさにみると、一巻本の伝本はいずれもクリーブランド美術館本系に特有な図様が描かれて、同系の段落順とも全て一致することが確かめられるからです。
一巻本の系統には主に次の伝本が存在します。
このうち一巻本の詞書を完存する最古作は、常福寺本と兵庫県立歴史博物館甲本の2本となります。画像を比較検討したところ、どちらも春浦院本やクリーブランド美術館本よりも下る16世紀後半以降(室町時代後期)の制作ではないか、と管見では推測されます。少なくとも兵庫県立歴史博物館甲本は、16世紀末~17世紀初頭(室町時代後期)と位置づけられます。
この一巻本「福富草紙」の詞書は、先行する二巻本「福富草紙」下巻の絵に合せて、新たに創作されました。二巻本から内容が乖離して、独特の世界を作り上げてもいます。
たとえば二巻本では、脇役たちにはほとんど名前がありません。
それに対して一巻本では、脇役たちは妙西、御御前(おごう)、和気清麻呂、歌一・為一、侍従殿などと名づけられて、個性を放っています。
また主人公たちは、もともと二巻本では凝った名前と身分が設定されていました。成功する翁は高向の秀武といい、香敷師を生業とする職人です。失敗する翁が「福富」といい、七条に住み、その坊の刀禰をしています。この職業から、福富の刀禰、略して富刀禰と、愛称されています。またその妻は富刀禰が妻(め)や、刀禰が妻と通称されます。
それに対して一巻本では、「福富」は成功する翁の名前となり、失敗する翁は「乏少藤太」と名付けられています。失敗する翁の妻は、鬼姥や、姥、と通称(半ば蔑称!?)されます。わかりやすい名前により、人物造形が強調されています。
このように一巻本では、脇役も主人公たちも、年齢・性別により一般化された「庶民」として、人物造形が誇張され、「笑い」が引き立てられているのです。
「笑い」といえば、詞書に下ネタ言葉が多いことも一巻本系統の特徴です。尻や股間を述べるために「ゐどころ」、「桃尻」、「ふぐり」、「おいど」……とさまざまに言葉が尽くされ、屁は「おなら」、小便についても「し(しし)」(類本には大便「ばば」も)と、直接言及されます。
さらにオノマトペがふんだんに使用されることも特徴です。「くろぐろ」、「ぬるぬる」、「はうはう」、「ひたひた」、「ねるねる」、「めらめら」、「びよびよ」、「しんちよ」、「きりきり」、「ことと(ことこと)」、「のろのろ」、「やせやせ」、「しかじか」、「ひしひし」、「がぶ」……。
こうした下ネタ言葉やオノマトペは、成人男性が公的に使用していたものとは考えられません。その多くが女房詞や幼児語であり、しかも17世紀初頭にならないとほかの使用例が見いだされないものあると、国語学者により指摘されています(*15)。
つまり一巻本系統は、詞書から「16世紀末~17世紀初頭の上流武家の周囲に仕えていた人物(もしかしたら女性?)が、「物語」の文章を作成したのではないか」と、考えられるというのです。
これは、兵庫県立歴史博物館甲本の制作時期とも重なるものです。
15世紀半ばに、祖型の二巻本系統「福富草紙」を享受していた層は、文化的な中枢を担った権力者などでしたが、16世紀末以降には一巻本系統の享受者層は女性へと移り変わっているのです。
一巻本系統「福富草紙」は、セリフのみで物語を進行する代わりに、幼児語・女房詞を多用した地の文章に磨きをかけました。
こうした二系統の詞書における差異は、絵詞の書き込みがなかった二巻本(クリーブランド美術館本系「福富草紙 下巻」)が存在し、それをもとに一巻本が成立したため生じたのかもしれないと、推測されています(*16)。
実際、一巻本のうち最古本の一つである出光美術館本には、画中詞ではなく、絵場面と絵場面の間に挿入された別紙に、要約のような短い詞書を記しています。福富織部という登場人物の名前すら、語られません。
詞書不在という一時的な端境期を経て、読むことで絵をより面白く鑑賞できるような方向へと、一巻本の詞書は成立したのです。それも読み手に、武家階級の子どもや女性を想定して……。
そうしてみると、やや芝居がかった文章、絵を絵解きするような文章を展開することも、特徴として納得されます。初学者たちにわざわざ言い聞かせているのです。
たとえば第2場面で、乏少藤太の貧乏暮らしの説明はあまりに冗長です。
詞書「あまり寒さに風をいれける」が、16世紀頃に流行した連歌「あまり寒さに風を入れけり、賤の女があたりの垣を折りたきて」と類似すると指摘されており(*17)、物語の読み手が親しむにふさわしい文芸の一端をほのめかします。
また一巻本では、二巻本で「みさき神たち」(使役神)とされた烏を熊野権現の使いとし(第10場面)、二巻本で「いみじき薬」とされた椀の中味を「湯水」(第11場面)とするなど、細部にモチーフの読み替えがなされています(*18)。
この他にも、少女たちが覗く衝立を「軟障だつ物」(第8場面)、腰の骨を踏むために取りついた衣紋竹を「衣桁」(第9場面)、乏少藤太が両手を突く石を「砧の盤」(第11場面)……などなど、二巻本の詞書では言及されなかった絵画モチーフについて、一巻本では(独特の解釈を交えながらではありますが)、物の名前をあげて説明します。
さらに一巻本の成立を考えるうえで興味深いのは、最終場面、鬼姥が福富織部に噛みつく姿を描写する箇所です。
「目は逆さまに切れ、口は耳の根まで広がりて息まくは、蛇体にや変はりつらん」(第13場面)
「蛇体」という表現には、単なる生物としてのヘビではなく、「道成寺縁起」にて恋する安珍を追いかけ蛇となる清姫の姿、あるいは「華厳宗祖師絵伝」にて恋する義湘を追いかけ龍となる善妙の姿が、重ねられているのでしょう。
「道成寺縁起」の原型成立は室町時代初期に遡るとはいえ、ある程度広く受容されるのは、足利義昭(1537~1597)の花押の在る「(重要文化財)道成寺縁起」(道成寺蔵)が制作された時期からではなかろうか、と思われます。
真剣な恋が高じての蛇体も、「福富草紙」では、色恋もない翁と媼の、水辺もない洛中でのやりとりであり、元ネタとのギャップが、笑いを誘います。
このように一巻本系統「福富草紙」は、幼児語・女房詞を多用して、しかも読み手に受け入れやすい形で、文章を展開しました。一巻本系統が成立した16世紀末~17世紀初頭に、連歌に親しみ、「道成寺縁起」などの社寺縁起にも親しんでいた武家階級の子どもや女性のために、この絵巻物はきっと良き楽しみをもたらしていたに違いありません。
伝本の総数からみると、春浦院本系が最も多く残されていることを、先に述べました。
では、なぜこうした模本が制作されたのでしょうか?
たまたまこの系統が流布していたのでしょうか?
この春浦院本系の伝本は、宮内庁書陵部本を最古本として東京藝術大学美術館本を下限に、江戸時代後期から明治期まで、約100年間というかなり狭い範囲で、集中的に転写されています。これは絵画様式から年紀のない他の伝本も同じで、いずれも江戸時代後期の作と判断されます。
興味深いのはそれぞれの来歴です。祖本は土佐光信筆と伝承され、それを師匠筋の土佐派絵師が写し、さらにそれを弟子が転写してゆく、という模本制作の過程が見受けられるのです。筆者や書写年次の確認できる伝本から、来歴を確認しましょう。
まず宮内庁書陵部本は、寛政10年の奥書によると松浦公の求めで、土佐光信筆「福富草紙」を粟田口直隆が臨模した1巻といいます。これは注文主である松浦公(平戸藩主松浦清か)のコレクション形成に関わる転写と見なされますが、祖本の筆者を土佐光信に求める早い例として注目されます。
つぎに国立国会図書館本は、文政元年(1818)に狩野洞白(1772~1821)の所蔵本から緱山正禎(1780~1840)が模写したものです。巻頭に「主土佐内記」と墨書され、その傍らには住吉如慶について注記されています。
アメリカ議会図書館本は、もともと住吉絵所の伝本を飯塚廣美が転写し、文化3年(1803)にその転写本を本多忠憲(1774~1823)が描き写し、文政7年(1827)にその忠憲本を弟子の藤原正憲が転写した作品であることが、奥書によってわかります。この文政7年の藤原正憲による奥書には「詞ハ誰人 ... にやさだかにもあらず畫ハ土佐の光信なるよし ...」とあり、祖本「福富草紙」の筆者は土佐光信であるといいます。
また西尾市岩瀬文庫本は、書写識語によると天保11年に「住吉内記」の秘蔵する伝本を貴志忠美(朝暾:~1857)が一部抜き書きしたものです。その内題と巻頭注記にも「福富翁草子〈土佐光信筆〉住吉内記蔵巻書抜」とあります。本奥書には「忠憲云(中略)詞は誰人のつらねかけるにやさたかにもあらす画は土佐の光信なるよし」とあり、有職故実に精通した本多忠憲が、筆者を土佐光信とみなしたことが記載されています。
東京藝術大学美術館本は、「住吉内記」の所蔵する土佐光信筆からの写しを、住吉派の絵師の荒井尚春(忠施)が模写したものを手本に、明治19年に弟子の在原重寿(古玩 1828~1922)が模写したものです。
以上のように公開されている書誌情報や画像情報から、来歴の基本事項をまとめました。このなかで、とりわけ西尾市岩瀬文庫本にみる土佐光信筆の伝承が、アメリカ議会図書館本の文政7年の奥書と完全に符合することに注目されます。アメリカ議会図書館本が飯塚廣美による住吉絵所本の写しから端を発したことを鑑みれば、その師である住吉広行(1705~1777)が、筆者の見立てに関わっていたのかもしれません。
模本制作については、これまでは古画学習のため、あるいは絵師の手控えや絵手本とするためと説明されてきました。白描や淡彩のものや、彩色の指示が書き込まれたものも少なくないためです。またクリーブランド美術館本系のように、主流ではない伝本系統の分析から絵巻物の本来の姿を知るために、模写されることもあったようです。
しかし春浦院本系に関してはその背景に、①住吉絵所に春浦院本系の絵手本が存在したこと、②その絵手本は土佐光信筆本からの写しとされたこと、③ときに住吉内記(如慶)による写しとされることもあったこと、④新たに模写するのは住吉派の絵師であったこと……、これら4つの要因が横たわっています。
土佐光信筆や住吉如慶筆と推定できる「福富草紙」は、系統の如何を問わず、今のところ確認されていません。とすれば、絵師にとって春浦院本系「福富草紙」を転写することは、土佐光信-住吉如慶から相承される絵師系図の正当性を担保する、重要なアイテムを得る行為だった、という側面もあったのではないでしょうか。
模本を制作することで、④住吉派の絵師自らが、②③の伝承を「事実」として語り継いでいく役割を果たしたていたのです。
絵場面の順にも注目しましょう。
「福富草紙」の大部分の伝本では、物語は次の順でクライマックスを迎えます。クリーブランド美術館本系と一巻本系統のすべて、そして春浦院本系でも「住吉内記」本の写しは、いずれもこの場面の順です。
しかし、春浦院本系のみには2種類の錯簡が存在します。
宮内庁書陵部本と兵庫県立歴史博物館乙本では、(10)祈祷する妻と(12)薬を請う妻の順が入れかわっているのです。
立教大学図書館本と個人蔵本(安永4年〔1775〕、狩野養川院惟信筆)では、宮内庁書陵部本=兵庫歴史博物館乙本の並びから(9)腰を踏む妻の段落が、(11)と(10)の間に入った順となっています(*19)。
この錯簡を扱う問題は、研究史上まだ決着はついていません。それでも宮内庁書陵部本と兵庫県立歴史博物館乙本では、絵場面や画中詞まで増補されているため、物語の自然な展開を追求して、故意的に校合したのではないか、と推測されます。
第8段落が増長して、裸で震える翁を大勢の群衆が見物しているのです。
しかも兵庫県立歴史博物館乙本は、彩色が異なる上下巻揃いの「異本」(同じ二巻本系統の春浦院本系)も、後半部に抜き書きしています。江戸時代後期の絵師たちが、何百年も前に作られた絵巻物からなにかを学びとろうとしていたのは確かです。
その前半部の手本とされたのは、書写識語「千春之本」から、土佐派の絵師である高島千春(1777~1859)の所持していた伝本と推定されます。これを写したのは土佐光孚(1780~1852)で、それを弟子筋にあたる土佐派の絵師がさらに模写したのが、兵庫県立歴史博物館乙本です。
また土佐光孚による本奥書によれば、「千春之本」の詞書は貞成親王筆、絵は土佐隆成筆と見なされています。この見立ては、春浦院本の箱書墨書の内容と一致するものです。
しかし一方で、同じ絵場面の順である宮内庁書陵部本は、土佐光信筆だと見なされていました。
筆者の伝承が揺れうごいているのです。
この時代、大型プロジェクトとして松平定信(1759~1829)による『集古十種』や、『古画類聚』が続々と編纂されていました。とくに『古画類聚』では、過去の絵画や絵巻物が網羅的に集められ、モチーフごとに模写され、「福富草紙」も16図が収録されました。その目録には「福富草紙 妙心寺蔵 光信筆」とあり(*20)、春浦院本が土佐光信筆と見なされたことが知られます。
その伝承が移り変わったのは、兵庫県立歴史博物館乙本の識語にあるように、有職故実に精通した高島千春の見立てだった可能性があります。
住吉派周辺によるアメリカ議会図書館本や西尾市岩瀬文庫本などで、絵手本の「住吉内記」本が土佐光信筆と伝承されつづけた現象とは、若干事情が異なるようです。
歴史的な真実とは別に、こうした絵師の伝承が当時の社会的文化圏において、大切な役目を担っていたこともまた真実です。土佐光信や土佐隆成だと「伝承」されることで、「福富草紙」への関心は高まり、また「伝承」も見直され、積極的に写し継がれてきたのです。