学校長より
洲本高等学校 校長
越田 佳孝
|
 |
新しい年が始まりました。今日から3学期です。3月までが今年度です。今年は穏やかなお正月でした。「正月の朝 晴れて風なし」(石川啄木『悲しき玩具』)という心境でした。吉田兼好は、元日について、「かくて明け行く空のけしき、昨日に変はりたりとは見えねど、引き替えへめづらしき心地ぞする」(『徒然草』第19段)と言っています。元旦という日は不思議な日だ。昨日と今日1日しか違わないのに、昨日を去年、今日を今年という。去年という昨日と今年という今日はほとんど変わったように見えないのに「めづらしき心地ぞする」と言うのです。「めづらしき心地」とは「すがすがしさ」「清浄感」のことです。日本人は、こういう節目を大切にし、居住まいを正し、目を閉じて祈り、決意を新たにしてきました。その最も大きな節目が「正月」です。生命が更新され、作物や家畜の豊穣性も確保され、さらに世界の秩序が回復されると考えられていたからです。だからめでたいのです。
2017年は、私たち次第では、のちの世代から「歴史のターニングポイント」として記憶される年になるかも知れません。そういう年にならぬことを期待しての、「私たち次第」です。1月20日に世界で最も影響力のある大国の指導者が交代します。私は他国の指導者の交代にとやかく言うつもりはありません。私が危惧を抱いているのは、その人の政策の中味以前に、その人の「振る舞い方」が、その国や他国のあまたの指導者、国民に与える影響です。就任前から指先一つで「つぶやき(twitter)」、それに大企業が右往左往します。自らの国が多様な移民と自由な貿易で成り立っていた歴史を顧みることなく、「私たち」と「私たち以外」とに明確な線引きを行い、露骨な言葉で「私たち以外」を排除しようとしています。
確かに、そういうやり方はある種の「分かりやすさ」を持っています。「分かりにくい」よりも「分かりやすい」に越したことはありません。ただ、少し考えれば、現代という社会はそう簡単に「分かりやすく」割り切れるものではありません。にもかかわらず、その「分かりやすさ」を称賛する風潮が蔓延していることに、私は「危うさ」を感じているのです。その理由の一つは、「分かりやすい」ということは、あまりにも明確な答えを与えられて満足し、考える気もしない状態にしてくれることを意味します。このことが危険です。政治家や評論家が私たちに代って考えてくれる。じゃあ「その人たちに任せておこう」となってしまいがちになるからです。二つ目は、ストレートで「分かりやすい」主張であればあるほど、ストレートに「野蛮な暴力」に直結しがちだからです。こういう議論の行き着く先は、自分と異なる者たちを暴力的に排除してしまおうとする「ファシズム」です。
2017年という新しい年では、「分かりやすさ」を無批判に受け入れず、立ち止まって考える「姿勢」がますます必要になります。自分とは違う他者の存在を認め、そういう他者と対話をとおして辛抱強く違いを埋めていこうとする姿勢です。みなさんの精進を期待します。
|