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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第14回:「坂落とし」を歩く(その1) 2011年5月15日

学芸員 前田 徹

 

 去る4月16日(土)に、「ひょうご歴史ステーション」の新コンテンツの一つとして、「絵解き源平合戦図屏風」をアップしました。このコンテンツでは、「ほんとうの一の谷合戦」という項目を設けて、生田森・一の谷合戦の実像をかいつまんでご説明しています。しかし、かいつまんでですので言い残したことがかなりあります。そこで、とくに「坂落とし」の位置をめぐって、これから何回かに分けて補足してみようと思います。

 コンテンツでも述べたように、この問題は今のところなかなか明快な結論は出せないと思っています。ですが、ゆっくり現地を歩くと、答えは見えないまでも考えるための基礎的な足がかりを得ることは可能でしょう。今のところは、わからないならばそのわからない理由を理解する、その上でこの辺までは大丈夫かなというところを確認しておく、そういう作業も必要ではないかと思います。

鉢伏山(神戸市須磨区)
鵯越道から大輪田泊故地方向を望む(神戸市兵庫区)

 坂落としの位置としては、大きく見て、神戸市須磨区の鉢伏山・鉄拐山か、神戸市北区から兵庫区・長田区の境界を通っていく鵯越か、という二つの候補地があります。これは、『平家物語』に、「一の谷のうしろ鵯越」などという、現地の地理を知っている人間にはなかなか理解しがたい記述が見られることから生まれたものです。さらに厄介なことに合戦の実像を窺わせる同時代史料は、『玉葉』のとても簡潔な記述などごく限られていますので、地理や合戦の全体的な概略、あるいは『平家物語』の文学作品としての特徴、などといった周辺的な状況から推測していくという方法しかとれないのです。

生田森・一の谷周辺

 このため、実に明治以来の長々とした議論の歴史があり、坂落としは鵯越からなのか、須磨からなのか、あるいは両方からなのか、さらに実行したのは多田行綱なのか、義経なのか、そして両方なのか、今日でも諸説が並立しています。こうした諸研究については、コンテンツの「参考文献」に主なものの書名等を載せていますので、是非ご一読いただければと思います。

兵庫名所図巻、江戸時代、当館蔵

 さて、こうした論点を念頭におきながら、まず今回は須磨の山を歩いてみましょう。海からすぐに盛り上がっている鉢伏山・鉄拐山の山並みがその舞台になります。「一の谷合戦」というのは、この山の麓にある谷間の名称に由来しています。一の谷の西に、順番に二の谷・三の谷という谷もあります。写真にあげた江戸時代の「兵庫名所図巻」(当館蔵)は、こうした三つの谷が連続する風景を、やや概念的ですがわかりやすく示してくれています。

基図:国土地理院発行1/25000地形図「須磨」(2000年)

 三の谷付近に位置する山陽電鉄の須磨浦公園駅からロープウェイで登り、少し歩くと回転展望閣がある鉢伏山の山頂に着きます。そこから裏山へのびるハイキングコースをたどっていきましょう。無線中継所がある旗振山というもう一つの山頂を通り過ぎて尾根上の幅広く整備された道をしばらく進みます。

鉢伏山頂
旗振山

 やがて左へ尾根上をそのまま進む道と、右下方へ降りていく道との分かれ道にでます。まず、第一の手がかりにたどりつくために、この分かれ道を右下へ降りていくこととします。

分かれ道
下り坂

 途中からやや急になって階段が付けられている尾根道をどんどん降りていくと、5分ぐらいで十字路状の分かれ道にでます。ここもまっすぐ通り過ぎていくと、ゆるやかな下り坂で快適な尾根道が続きます。

十字路
尾根道

 5分ほどすすむと、木々が伐開された尾根の端に出て、神戸の町並みがとてもよく見渡せます。ただし、足下の笹藪の先はたいへんな断崖絶壁です。うっかりすべり落ちると、おそらく命はないでしょう。

尾根の端から神戸市街を望む
下から尾根の端を見上げる

 この目の前の断崖は、麓へ流れていく赤旗谷川の枝谷になります。そして道はこの突端の手前で右に折れ、ここからは階段が付けられています。左右に木柵が設けられた階段をどんどん降りていくことになりますが、須磨の地元の方々などが案内される見学会では、この地点を坂落としの場所として紹介されるのが一般的なようです。

痩せ尾根を降りる
下から痩せ尾根の道を見上げる

 降りていく左側は先ほどの赤旗谷川の枝谷でかなり深い断崖絶壁、右側は二の谷へと続く斜面ですが、これもかなり急です。こうした両側から谷が迫っている細い痩せ尾根を降りていくことになりますが、この尾根自体も比較的急傾斜です。地形図の等高線で読みとると、道が大きく折れ曲がっているところまでで比高差は20〜25mほどあるようです。距離は70mほどとさほど長くありませんし、今は階段と柵が付けられていますので比較的安全に降りられますが、階段なしを想像すれば、たしかに結構危険な場所です。ここまで、あまり道草をくわなければ、ロープウェイを降りてからおおよそ30分ぐらいです。

赤旗谷川の枝谷
ニの谷へ続く斜面

 この階段を下りると、一の谷と二の谷との間の海岸段丘上の平坦地にたどりつきます。ここには、住宅群の中に「安徳天皇内裏伝承地」があり、小さなお宮が祀られています。地図でこの段丘を見ると、海岸に面した南側は海岸段丘の崖で、崖下からの比高差は20mほどあるようです。東は一の谷川とその支流の赤旗谷川、西は二の谷川のそれぞれ深い谷、さらに北の山側は、今述べたように両側から谷が深く食い込んでいて、谷に落ち込まずにつながるのはこの細い痩せ尾根だけという地形です。四方をほぼ断崖に囲まれていることになり、素人目には防御にうってつけの地形に見えます。たぶん昔の人も同じように考えて、古くからこの台地上を安徳天皇の内裏(だいり)跡と伝承してきたのでしょう。

痩せ尾根の上から見た段丘上の平坦地
(中央にあるオレンジ色の屋根の手前の林
が安徳天皇内裏跡伝承地)
安徳天皇内裏跡伝承地

 たとえば、江戸時代前半の宝永7(1710)年に兵庫津の書肆が出版した『兵庫名所記』(当館蔵)という名所案内にも、この段丘上に「内裏やしき陣屋、二十三間四方土手の跡」があったと記されています。この部分は、「内裏やしき」などと呼ばれる、「二十三間」=約40数メートル四方の「土手」=土塁の跡があったという意味でしょう。現在は周辺には斜面を平坦にするために造成した段差が見られる程度で土手らしきものは確認できませんが、こうした記述から、「内裏跡」という伝承は、江戸時代前半にはできあがっていたことがわかります。

 ただし、残念ながらこうした「安徳天皇内裏跡」という伝承が、どこまで事実を反映したものかについてはよく考えないといけません。800年以上前というかなり古い時期の事実を考える上では、伝承だけではやはり証拠にはなりません。

 

 とりあえず、少なくとも安徳天皇がここにいたという話はたぶん成り立ちません。多くの研究者は、『玉葉』の記述をもとに安徳天皇は2月7日の合戦当日には大輪田泊(神戸市兵庫区)付近にいたと見ています。そして、安徳天皇が福原付近にやってきたのは、『吾妻鏡』と『玉葉』から2月上旬ごろと考えています。このように安徳天皇が神戸周辺に再進出していたのは合戦直前のごくわずかな期間にすぎず、また良質な史料はいずれもこの間の平家方の拠点を「福原」と記していますので、安徳天皇の居所は須磨ではなかったろうということになるのです。

大輪田泊故地(神戸市兵庫区)

 ただし、天皇がいた内裏ではないとして、須磨のこの場所に平家方の陣地があった可能性は十分考えられると私も思います。大きく見て、一の谷口から鎌倉勢が攻め込んだのは間違いなく、それを迎え撃った平家方が一の谷周辺のいずこかに陣を敷いていたことは確かです。

 もっとも、平家方の有力部隊が福原に再進出してきたのは『百錬抄』という書物からこの年1月上旬ごろと考えられています。それまでは播磨の室津(たつの市)に駐屯していました。安徳天皇よりは長いものの、平家の軍勢が神戸周辺にいたのは2月7日までのわずか一月ほどということになります。ですから、本格的な陣地・城郭を構築する余裕はなかったとみられますが、それでも、とくに鎌倉勢が木曽義仲を討ち取った1月20日以降は、平家方も仮設的な防備固めを急いだはずです。自然の地形が利用できるこの段丘に、そうした防御陣地の一角が設けられていてもおかしくないと思います。しかし、これはあくまでも地形の状況からの憶測にすぎませんので、もう少し確実な証拠がほしいところです。また、そもそも鵯越説に立ってしまえば、須磨の現地で考える意味自体がなくなってしまいます。さらに全体的に考えなくてはいけません。

海側から見た一の谷―二の谷間の段丘
海辺の松原(須磨浦公園)

 ところで、こうして歩いてきたこの道は、1885(明治18)年に参謀本部が測量した仮製地形図にも、最も細い道であること示す破線記号で記されています。江戸時代のある段階からは存在した道と言うことはできるでしょう。また、先ほど引用した『兵庫名所記』にも、「鵯越の道、てつかい(鉄拐)が峰の腰、北より南へむかひ出る道なり」などと記されています。これがどの道を指すのかはもう少し考えてみたいところですが、ひとまず江戸時代前半にも、当時の人々が「鵯越」に比定したくなるような道がこの山の中を通っていたことはわかります。

 もちろんこう考えても源平の時代よりはかなり新しい江戸時代の道ということになります。ですからとりあえずの目安ということにしかなりませんが、この地図を見ていると、もう一筋山道が確認できます。この道も、基本的な部分は現在のハイキングコースに踏襲されているようです。次回は、このもう一つの山道を歩いてみたいと思います。まだまだ話の途中ですが、今回はこの辺で失礼いたします。

基図:参謀本部1/20000仮製地形図「須磨村」
(1885年測量、1898年再修正)