絵解き 源平合戦図屏風

ほんとうの一の谷合戦

生田森・一の谷合戦の実像

源平合戦図屏風

 一の谷合戦のほんとうの姿は、当時の都の公家(くげ)の日記など、同時代の史料を重視して考える必要があります。同時代史料は『平家物語』ほど雄弁ではありませんが、『平家物語』とはややことなる姿をも見せてくれます。

後白河の計略

後白河法皇 参考:天子摂関御影(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)
後白河法皇
参考:天子摂関御影(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)
平宗盛
平宗盛

 生田森・一の谷合戦を知るための同時代史料として、当時右大臣(うだいじん)という上級貴族だった九条兼実(くじょうかねざね)の日記『玉葉(ぎょくよう)』があります。『玉葉』には、兼実が都で聞いた伝聞情報が数多く記録されています。

 兼実は、寿永3(1184)年1月終わりの段階で、後白河法皇は鎌倉勢を攻撃に向かわせると同時に、平家方に和議の使者を送ろうとしていたと記録しています。ただし、この時使者に命じられた僧侶は、鎌倉勢が出撃する中ではとても交渉に行けないと断っています。

 兼実は、生田森・一の谷へと向かう直前の鎌倉勢の様子も記録しています。鎌倉勢は数も少なく出陣には気乗りしておらず、合戦5日前の2月2日の段階でも、都は出たもののまだ西はずれの大江山(おおえやま=京都市西京区)付近に止まっていて、軍勢の幹部は平家に使者を送ることに賛成していた、と記されています。しかし、合わせて後白河の側近たちが、強硬に攻撃を主張していたとも記録しています。どうやら後白河としては、平家討伐を強く希望しながら、和議の使者をも送ろうとしていたようです。

 そして、後白河の側近から平家への使者が実際に送られたことを示す史料も残されています。幕府の正史として鎌倉時代後半に編纂された『吾妻鏡(あづまかがみ)』には、生田森・一の谷での敗戦直後、平宗盛から後白河法皇に送られた手紙が収録されています。この手紙で宗盛は、「戦いの前日に停戦を命じる手紙が届き、それを信じていたら源氏方に急に襲われてしまいました、これは一体どうしたことでしょうか?」と法皇を非難しています。

 こうした史料を重視すると、どうやら平家は後白河のだましうちにあった、とも言えそうです。後白河は鎌倉勢を攻撃に向かわせながら、平家には和議をうながす使者を送っていたということになるのです。実際にどこまで平家方が油断していたか、敗戦後の宗盛の言葉をそのまま信用することはできませんが、こうした後白河の計略が勝敗に影響を与えた可能性は考えられます。「坂落とし」などの鎌倉勢の戦場での武勇だけではなく、こうした政治的な計略も、この合戦では大きな役割を果たしたかもしれないのです。

坂落としの位置

 『平家物語』では、坂落としに臨んだ義経勢は、「一の谷のうしろ鵯越(ひよどりごえ)」にやってきた、と書かれています。

 しかし、実際の地名としては、「鵯越」とは現在の神戸市兵庫区と長田区の境界をを通る山道の名称で、江戸時代には現在の神戸港の前身になる港町兵庫津から、六甲山系を越えて播磨内陸部の三木方面へとつながる交通路として使われていました。兵庫津は源平合戦のころには大輪田泊と呼ばれていましたので、鵯越は大輪田泊へと降りる道ということになります。また、六甲山系から平地へと降りる途中で東に折れると、すぐそこはかつて清盛が別荘を構えた福原の中心地です。

 こうした鵯越は、神戸市須磨区にある一の谷とは7〜8kmほど離れていて、とても「一の谷のうしろ」と表現できるようなところではありません。こうした『平家物語』の記述の混乱が、坂落としの実像を見えにくくしてしまっているのです。

坂落とし
坂落とし

 同時代史料である『玉葉』では、合戦翌日の戦場からの報告をもとに、範頼が大手を攻撃したこと、義経が一の谷へ攻め込んだこととともに、「山手」を攻撃したのは多田行綱(ただゆきつな)という人物であったと記されています。多田行綱とは、摂津国多田荘(せっつのくにただのしょう=兵庫県川西市など)を本拠にしていた源氏の一族です。

 ただし、この記事についてもあくまで戦場からの第一報という伝聞情報であることなど、確実に事実を伝えているのかどうかはなお検討の余地があります。そのほかの確実な史料がきわめて限られていることもあり、現在でも「山手」の位置については諸説が並立したまま決着がついていないのです。

 主なものとしては、@義経はまずは三木方面から鵯越の道を進み、六甲山中で一の谷方面へ進路を変えて一の谷から攻撃したとするもの、A『玉葉』を重視して、「山手」は鵯越であり、多田行綱が攻撃したとする説、B鵯越であるが義経が攻撃したとする説、または、C『平家物語』の「一の谷」を重視して、「山手」は一の谷背後の鉢伏山・鉄拐山(はちぶせやま・てっかいさん)であり、攻撃も義経であるとする説、さらに、D鵯越からは行綱、一の谷からは義経がそれぞれ別々に攻撃したとする説などがあります。

須磨一の谷 (須磨区西須磨より)
須磨一の谷
(須磨区西須磨より)
一の谷背後の山腹 (須磨区一ノ谷町より)
一の谷背後の山腹
(須磨区一ノ谷町より)
須磨浦 (須磨区須磨浦通より)
須磨浦
(須磨区須磨浦通より)
敦盛塚 (須磨区西須磨)
敦盛塚
(須磨区西須磨)

 現在のところは、どの説がよいのか、にわかに結論を出すことは難しいと言わざるを得ません。ただし、鵯越は生田森から須磨まで、およそ10kmもの範囲に布陣していた平家方の中央を分断する位置にあたります。『玉葉』では、戦いは午前8時ごろから10時ごろまでの2時間ほどで終わったと記されていて、案外に短時間で終わったことがうかがえます。仮に須磨の一の谷への攻撃が決め手になったと考えると、生田森までは距離が離れすぎていて、2時間あまりでは決着が付きそうもありません。誰が攻撃したかはなお検討が必要でしょうし、一の谷での山側からの攻撃がなかったとも言い切れませんが、勝敗の決め手となったのは鵯越からの攻撃であったと考えるのが自然ではないでしょうか。

鵯越道から一の谷方面を望む (北区山田町下谷上より)
鵯越道から一の谷方面を望む
(北区山田町下谷上より)
苅藻川の谷から尾根上の鵯越道を見上げる (長田区西丸山町より)
苅藻川の谷から尾根上の鵯越道を見る
(長田区西丸山町より)
鵯越道 (兵庫区里山町)
鵯越道
(兵庫区里山町)
鵯越道から福原故地を望む (兵庫区小山町より)
鵯越道から福原故地を望む
(兵庫区小山町より)

福原の都

福原・大輪田泊があった地域 (神戸市兵庫区)
福原・大輪田泊があった地域 (神戸市兵庫区)
福原・大輪田泊があった地域(神戸市兵庫区) (写真提供:兵庫県立考古博物館)

 生田森・一の谷合戦の舞台となった現在の神戸市街地には、平清盛(たいらのきよもり)が別荘を構えた福原(ふくはら=神戸市兵庫区)がありました。清盛はその権力が絶頂を極めた治承4(1180)年6月、高倉上皇(たかくらじょうこう)・安徳天皇(あんとくてんのう)を福原に移し、福原を新しい都にする計画を進めました。しかし、時を同じくして全国で源氏方の挙兵が相次ぐ非常事態となり、11月になって清盛は計画を断念して都を京都に戻したのでした。

 近年の発掘調査によって、このころの福原の一部と見られる二本の溝の遺構が検出された邸宅(ていたく)跡、宴会に用いられた大量の素焼きの杯(さかずき)が出土した遺跡などが見つかっています。

楠・荒田町遺跡で発見された溝跡 (写真提供:兵庫県立考古博物館)
楠・荒田町遺跡で発見された溝跡
(写真提供:兵庫県立考古博物館)
祇園遺跡で出土した平安末期のやきもの (写真提供:神戸市教育委員会)
祇園遺跡で出土した平安末期のやきもの
(写真提供:神戸市教育委員会)

 清盛は朝廷で勢力を強めた後、仁安4(1169)年春ごろからこの福原に住むようになり、それ以後10年ほどの間は重要問題が発生した時だけ都に上り、普段は福原から都の政治ににらみをきかせていました。このため、福原には清盛をはじめとする平家一門の別荘群が軒を並べるようになっていたようです。

 福原近くの海岸部には、瀬戸内海水運の要衝である大輪田泊(おおわだのとまり、後の兵庫津)がありました。清盛はこの港に防波堤としての役割を担う経島(きょうがしま)を築くなど改修に力を注ぎ、ここを拠点として中国の南宋(なんそう)との貿易にも精力的に取り組みました。このように、生田森・一の谷合戦の舞台となった現在の神戸市街地は、平家一門にとっては清盛以来の重要拠点だったのです。

 なお、清盛らが建設した福原の邸宅群は、『平家物語』では寿永2(1183)年7月、平家が西国へ都落ちをする際に一旦焼かれたとされています。これを事実と見れば、生田森・一の谷合戦はこの半年後ですので、この時には邸宅群はすでになかったことになります。

雪見御所跡碑 (兵庫区雪御所町)
雪見御所跡碑
(兵庫区雪御所町)
大輪田泊故地 (兵庫区今出在家町より)
大輪田泊故地
(兵庫区今出在家町より)
▲ページトップへ