The World Wide Web Site, Hyogo Prefectural KOBE High School

兵庫県立神戸高等学校

3学期 終業式 式辞

県立神戸高等学校 校長  中野 憲二  


 おはようございます。月日のたつのは早いもので、今日が平成29年度の終業式となりました。1年間、命に関わるような事故は無く、このように元気で終業式が迎えられますことをうれしく思います。 

 私からみて、この1年間でみなさんは大きく成長したと思います。学習面、部活動、学校行事に頑張るとともに、多くの人とのおつきあいの中で人間的にもたくましくなったと思います。顔つきも1年生は2年生らしく、2年生は3年生らしく成長していると感じています。

  すでに世話係の人たちは、73回生の世話をしてくれていますが、2年前の自分たちを思い起こしながら、接してあげて下さい。

 

 今日は終業式ですので、この1年間を振り返り、反省すべきは反省をし、自分を褒めるべきところは褒めて、自信にして欲しいと思います。

 3年ほど前に、徳川家康を立体的に等身大に再現したものが、静岡県の浜松市でつくられ、市役所などに展示されたとして話題になりました。

 なぜ話題になったかというと、その立体像の基になった絵が260余年続いた江戸幕府を中心とする統治体制の礎を築いた、徳川家康が、「座右の銘」としていたと伝えられる絵だったからです。

 その絵は一般に「しかみ像」と呼ばれている絵で、昭和に入って、絵が徳川美術館に移され、展覧会に出品された際に、美術館側から「三方ヶ原での敗戦を狩野探幽に描かせたものだ」とか「家康自身が描かせた」とか「慢心の自戒として生涯座右を離さなかった」ことなどの情報が付与されたもののようです。

 では、その三方原の戦いとはどういうものだったかというと、西暦1573年に、現在の静岡県浜松市近辺で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦いで、室町最後の将軍足利義昭の信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる3万の武田軍に、徳川 ・織田の連合軍が8千が迎え撃ったが大敗した、という戦いです。

 当時の武田軍は、戦国最強といわれ、300年後に勝海舟が西洋式軍隊を学んだとき、「何だ、兵術は武田と同じじゃないか」といったほど、のものだったようです。

 概略はこうです。

 家康は、武田軍を浜松城で籠城戦に備えていた。武田軍は、浜松城を素通りしてその先にある三方ヶ原台地を目指しているかにみえた。

 これを知った家康は、籠城策を武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し、浜松城から追撃に出た。夕刻に三方ヶ原台地に到着するが、武田軍は万全の構えで待ち構えていた。眼前にいるはずのない敵の大軍を見た家康は不利な形で戦端を開くことを余儀なくされ、武田軍に撃破され、多数の武将が戦死して敗走する。武田軍の死傷者200人に対し、徳川軍は死傷者2,000人のほか、有力な家臣をはじめ、家康の身代わりとなった家臣、また織田軍の武将も失った。

 その三方ヶ原の戦いというのは、家康が31歳の時の戦いでに三方ヶ原の戦いで51歳の武田信玄に大敗したあと、そのことを忘れないように絵師に書かせ、座右においたとされる絵を再現したものだからです。

 ある脳科学者の話では、20代がひらめき、柔軟性は一番優れているが、前頭皮質=意思決定に重要な役割を果たすところ、は家康のこのときの年齢、31歳でもまだ未発達で、つい、勢いで動いてしまうところがある、ということのようです。

 ひらめき、知識、経験、思考か゛もっとも脂ののりきった51歳の信玄に敗れたということかもしれません。

 「しかみ像」の出自がどうであれ、家康に、敗走したという惨めな体験があったことも、また事実です。三方ヶ原の戦いで敗戦した苦渋の姿を肖像画に描かせ、生涯に渡り自分に対する戒めのため、座右から離さなかったという伝承は、「失敗を真摯に反省することが次の成功につながる」、「慢心を自戒」するという考え方が共感を呼んでいることに意味があります。

 どのように成功を重ねた人にも、必ず失敗の経験があります。それを忘れて、現在の成功に慢心してしまったのでは、次のもっと大きな失敗をするというものです。

 

 来年度、皆さんにとって素晴らしい1年になることを期待して、式辞とします。

 

 


 「校長挨拶」へ 

2018.3公開

All Rights Reserved, Copyright © 1997- Hyogo Prefectural KOBE High School