この甲冑は17世紀に制作されたとみられる当世具足です。胴に体を入れる引合(ひきあわせ)は右脇にあります。反対側の左脇には蝶番(ちょうつがい)が設けられており、前面と背面の2枚をここで繋ぎ合わせた「二枚胴」となっています。胴は草花文様を染めた革で包まれ、その上から浅葱色(あさぎいろ)の糸の組紐で素懸(すがけ)に綴っています。こうした特徴を持つ当世具足なので、「浅葱糸威革包二枚胴具足」という名称になります。
このほか、胴の胸部には大型の細長い鉄小札(てつこざね)を留めて防御力を高めています。草摺(くさずり)は12間にわかれ、唐冠形(とうかんなり)の変わり兜、垂(たれ)付の面頬(めんぽう)に喉輪(のどわ)を重ね、大袖、佩楯(はいだて)と臑当(すねあて)が付属しています。
大袖は黒小札、草摺は朱小札を浅葱糸で威し、佩楯には金泥で兎の絵が描かれています。また、兜につけられた大きな脇立は鍾馗耳(しょうきみみ)と呼ばれるもので、魔除けや武勇の象徴としての意味があるものですが、佩楯の兎の耳と掛け合うようにも思えます。いずれにせよ、当世具足としての機能性と凝った意匠がよく現れた甲冑といえます。
大袖の八双(はっそう)金物や笄(こうがい)金物、胴右脇の鐶(かん)付金物、背面の総角(あげまき)付の金物、籠手先などに近世大名脇坂家の家紋である輪違紋(わちがいもん)が据えられています。脇坂家は、賤ヶ岳七本槍の一人である脇坂安治が始祖で、羽柴秀吉から天正13年(1585)に淡路国洲本(兵庫県)を与えられ、関ヶ原の合戦後に伊予国大洲(愛媛県)へ移りました。ついで信濃国飯田(長野県)を経たのち、寛文12年(1672)に播磨国龍野(兵庫県)に封じられ、以後幕末まで定着した大名家です。この具足は安治の子息である安元が着用したものと伝えられています。