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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第117回:姫路煉瓦めぐり3 姫路市立美術館 2020年1月15日

事業企画課長・学芸員 鈴木 敬二

 

 

夕暮れの姫路市立美術館と世界遺産姫路城

 

 今回は2011年11月の学芸員コラム第10回「姫路煉瓦めぐり」の続編を記します。前回からずいぶん長い年月がたちました。そして、またもや前回とおなじく、煉瓦造りの姫路市立美術館を改めてご紹介いたします。

 なぜなら当館友の会のとある会員の方からのご教示により、同美術館の壁面の煉瓦に刻印があることを知ったからです(もっとも美術館の学芸員の方は、そのことをすでにご存じでしたが...)。まずは美術館の建築についてのおさらいと、煉瓦に残された刻印について記します。

 

煉瓦で築かれた壁の様子

 

 明治以降の姫路城周辺には軍事施設が相次いで建設されます。日清戦争後の明治29年(1896)、姫路に第十師団が置かれます。姫路市立美術館は、旧日本陸軍第十師団兵器庫として、明治38年(1905)に建てられました。明治30年代、美術館がある姫路城東側には兵器支敞が置かれ、多くの軍事施設が建てられましたが、戦後はそれらの多くが撤去されました。これらの施設のうち城東地区に残されているのは、市立美術館(旧兵器庫)と淳心会本部(旧師団長官舎)のみとなっています。

 なお姫路市立美術館の建物は、戦後しばらくのあいだは姫路市役所として用いられていましたが、昭和55年(1980)に市役所は現在地に移転し、昭和58年(1983)よりこの建物は姫路市立美術館となりました。

 

姫路市立美術館の煉瓦に残された刻印

 

 上の写真は、今回見つけた煉瓦の刻印です。丸印に三本の直線が交わったマーク(左)と、カタカナの「ク」の字の形(右)が記されています。

 左のマークは大阪の煉瓦製造会社「大阪窯業」の社章と考えられます。明治期後半の大阪府南部では、大阪窯業の他にも堺や貝塚、岸和田などに大規模な煉瓦製造会社があり、西日本に広く煉瓦を供給していました。このことは学芸員コラム第63回にも書きました。明治30年代以降、社章が刻まれた大量の煉瓦が西日本一円に配られ、各地に普及した洋風建築や土木構造物の建設に使用されたのです。

 しかし明治20年代以前の煉瓦の刻印は、今回の右側の刻印に見られるような仮名や数字、アルファベットなどの文字だけが記されるのが通例のようでした。JR姫路駅の高架化工事に先立ち発掘調査が行われた、姫路駅の初代転車台〔明治21年(1888)〕に用いられた煉瓦の刻印からも、このような傾向がみられます。

 これらの文字は煉瓦会社の社章ではなく、煉瓦を作った職人の責任印あるいは検印のようなものと考えられています。したがって姫路市立美術館の煉瓦刻印は、大阪窯業の社章と、同社で煉瓦を作った職人の責任印の両方が捺された事例といえます。

 実は、このように社章と責任印を同時に捺す例は実はそれほど珍しいものではありません。珍しいのは刻印を捺す煉瓦の位置の方です。市立美術館のこの煉瓦は、煉瓦の側面に刻印が捺されていますが、通常の刻印の位置は「長手」と呼ばれる側面ではなく、「平」と言われる煉瓦の上面に捺されます。「平」に刻印した煉瓦を積むと、通常は横から刻印を見ることはできません。ですので、通常は煉瓦建築の側面に刻印を見出すことが難しいのです。

 

姫路市立美術館壁面の状況

 

 大阪窯業株式会社の社長であった大高庄右衛門(1865−1921)は、明治19年(1886)頃、建築家の妻木頼黄や河合浩蔵、渡辺譲や、他の職工などとともにドイツに留学し、帰国後は日本の煉瓦製造をリードする存在となりました。

 明治30年代に関西で流通していた「並形」の煉瓦は、厚さが53mm程度であるのに対し、姫路市立美術館の建設に用いられたものは厚さが概ね60mmほどもあり、当時の東京で「並形」と呼ばれた規格(関西では「東京形」)のものでした。なお、明治30年代の山陽本線(当時は山陽鉄道)で用いられたレールは厚さが70mmもある「山陽形」と大高が記した規格のもので、大阪窯業をはじめ関西の煉瓦製造会社はそれぞれの規格に応じた寸法の煉瓦を供給する必要があったのです。

 大高は当時の雑誌に煉瓦の寸法についての論文を執筆し、当時の関西地方で使用された煉瓦の形状寸法が一定しないため需要者供給者とも不利益を被っているとの現状を訴えていました。市立美術館の煉瓦の刻印を見た私は、そんな大高庄右衛門のことを、ふと思い出してしまいました。