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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第63回:旧国鉄高砂線廃線跡と加古川改修工事の石碑の話 2015年6月15日

学芸員 鈴木 敬二

 

 去る平成27年5月16日、兵庫県立歴史博物館では「歴史の旅」という催しの一環で、旧国鉄高砂線廃線跡の見学に行きました。国鉄高砂線は、現在のJR神戸線(山陽本線)加古川駅と高砂市街および播磨灘に臨む高砂港とを結ぶ路線でした。元々は播州鉄道という私設鉄道の路線として大正2年(1913)12月1日に開業し、戦時体制下の昭和18年(1943)6月1日に国鉄の路線となった後、昭和59年(1984)11月30日に惜しまれながらも廃止されています。

 

 歴史の旅の見学会では旧高砂線の加古川〜高砂港間のうち、加古川駅から一級河川・加古川の左岸までの区間約5kmを歩きました。加古川左岸のおよそ500m(加古川左岸の堤防〜加古川市立若宮小学校敷地の南東コーナー付近)にわたって、播州鉄道(高砂線)の線路を敷くために築かれた盛土堰堤(えんてい)や橋梁(きょうりょう)などが、往時の姿を留めたまま遺されています。この区間の橋梁は、橋台(きょうだい)や橋脚(きょうきゃく)などがいずれも昔ながらのレンガで築かれており、高砂線の廃線跡を歩く上でそこが一番の見所となったのです。

写真@ 国鉄高砂線の廃線跡(鳩里第1開渠〔きゅうりだいいちかいきょ〕

 先に記したとおり旧国鉄高砂線は、私設鉄道である播州鉄道の路線として大正2年(1913)12月1日に高砂口〜加古川町駅間がまず開業しました。加古川の鉄橋が完成した後の大正3年(1914)9月25日、高砂浦までの全線が開通し、旧高砂線に相当する約8キロメートルすべての区間で列車の運転が始まりました。その結果、播磨灘に面する高砂港と西脇など播磨内陸部が初めて鉄道により結ばれることとなったのです。レンガ造(づくり)の橋台や橋脚などは大正3年の高砂線全通前に完成したものであり、近代における地方の私設鉄道敷設の様子を示す貴重な鉄道遺産と言っても良いでしょう。

 この区間、レンガで橋台や橋脚を築いた橋梁は4基、築かれています。試みに各橋梁に使用されたレンガの寸法を測ってみると、いずれも厚さが6.5〜7cmほどありました。明治から大正期に用いられたレンガの並形と呼ばれるものは厚さ5.3cm。東京形と呼ばれるレンガは厚さが約6cmであり、高砂線の敷設に用いられたレンガは当時の標準的な規格のものではないことがわかります。

 明治期に大阪のレンガ会社が厚さ6.97cmの「山陽形」と呼ばれるレンガを製造したことが知られており、高砂線跡のレンガもこの山陽形のレンガに寸法が最も近似しています。この規格のレンガはJR山陽本線の橋梁下部工で見ることができることから、明治期の山陽本線(当時は「山陽鉄道」という私設鉄道)建設に際して用いられた規格といえます。ただしこの山陽形は、明治30年代後半以降には山陽鉄道建設の現場では用いられなくなり、代わりに厚さ5.15cmの山陽新形という規格が登場してきます。明治30年代後半に一度は鉄道建設の現場から消えたと思われる山陽形のレンガが、明治末〜大正初期の高砂線敷設に際し再び登場した経緯はよくわかっていません。また、橋梁の橋台に用いられるレンガの中には、大阪南部のレンガ会社の社章に似た刻印が認められることから、高砂線のレンガは大阪方面からも搬入されていたことがわかります。

写真A 鳩里第1開渠のレンガに認められる刻印

 ところで加古川堤防に近い位置に所在する橋梁の橋台・橋脚をよく見てみると、レンガの上端に近い部分に限って、厚さが約6cmと他よりも薄いレンガが使用されている部分があることに気が付きました。この区間の橋梁の一つ「鳩里第1開渠」では、橋台の上端部に厚さ約6cmと、他よりも薄いレンガが使われているだけではなく、レンガの積み方に乱れやズレが認められる痕跡が認められました。このようなレンガは、他の厚さ約7cmのレンガと同時に積まれたとは考えられず、どう見ても後から増し積みしたとしか考えられません。しかも増し積みの部分にもレンガを用いていることから、増し積みを実施した時期も大正期以前である可能性が高いと考えられます。このように大正期に高砂線の橋台を増し積みして線路の高さを上げる工事には、一体どのような原因が考えられるのでしょうか。

 

写真B 鳩里第1開渠の橋台に認められるレンガの増し積みの痕跡

 播州鉄道(高砂線)の列車はこの区間の西側で加古川を渡ります。加古川は播州地域を南北に縦断し、古くから灌漑や運輸に利用されるなど流域の開発に貢献してきました。その反面、頻繁に洪水が発生し、流域に甚だしい被害を繰り返し与えていました。このため加古川は特に下流域を対象とした大規模な改修工事が大正7年(1918)から昭和8年(1933)にかけて実施されています。大正13年に内務省土木局が発行した大正11年度の工事年報によると、加古川改修工事の付帯事業として高砂線の鉄橋改修も含まれていることがわかります。加古川改修工事においては川底のしゅんせつとともに堤防のかさ上げを行っています。このため高砂線の鉄橋も、その軌道面を堤防の高さに揃えるために橋台・橋脚の高さを上げたものと考えられます。

 加古川左岸に築かれた高砂線の橋脚や橋台の、レンガの増し積みも加古川改修時の堤防のかさ上げに伴う措置かと考えられます。高さを増した加古川の堤防を高砂線の列車が越えることができるように、加古川の手前にある鳩里第1開渠などの橋梁も合わせて高さを上げていく必要があったのでしょう。これが橋台や橋脚のレンガを増し積みした直接的な原因ではないかと考えられます。

写真C 加古川左岸に残された加古川改修工事の記念碑

 国道2号線の加古川大橋東詰の少し南側、春日神社の横に加古川改修工事の記念碑があります。16年にわたる河川改修工事の完成を記念するとともに、工事中に犠牲になった方の慰霊のための碑といわれています。この記念碑の大きさが、加古川が流域にもたらした被害の大きさと改修工事が困難に満ちたものであったことを示しているように思えわれます。それとともに、高砂線(播州鉄道)跡の橋脚に残された改修の爪痕も記念碑と同様に、何度も氾濫を繰り返した加古川を改修した難工事の跡を、今もひっそりと地元に伝え続けているように思われます。