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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第24回:「坂落とし」を歩く(その2) 2012年3月15日

学芸員 前田 徹

 

 前回(2011年5月掲載分)のつづきで、今回は鉢伏山・鉄拐山から一の谷方面へ降りるもう一つのハイキングルートを歩いてみましょう。

基図:国土地理院発行1/25000地形図「須磨」
(2000年)

 今度は先ほど降りてきた途中にあった十字路状の分かれ道を、降りてくる向きから見て左(北)に折れて進んでみます。これは山腹道で、右側は常に深い谷が続きます。谷底のピークになる部分を通過する時には、二箇所ほど自然の浸食作用でとてもきれいに掘りこまれたV字谷が観察できます。これらは前回見た赤旗谷川の源流部に相当します。

分かれ道
V字谷

 15分ほど歩くと、妙見堂跡に到着です。休憩用の小屋が建てられていて、中には登山会のメンバー用の登山記録簿が貼られています。山好きの方々がよく上り下りされているようですね。私が休憩している10分ほどの間にも4人ほどの高齢の方々が登ってきて記帳されていました。

妙見堂跡
署名所

 ここから少し下ると、「展望台」に出ます。ここからも神戸の街がきれいです。この展望台は、大きな岩盤の上にこしらえられていて、ここから降りる道が、距離はわずかですが階段が設けられている程度の急坂です。この階段を降りて進むと、あとはほぼ平坦な尾根道ですが、一箇所だけ、両側から谷が迫って天然の掘り切り状になってしまっているところがあります。今はコンクリートの橋が架けられていますが、橋の下で本当に掘り切られている部分は数mとごく短いですので、橋がなくても通行は可能だと思います。

展望台から神戸市街を望む
橋とあずま屋

 その先にはあずま屋があり、さらに最後は階段が設けられている尾根道を降りると、一の谷川のほとりの段丘上に到着です。ここまでロープウェイ山上駅からまっすぐ来たと仮定すると、ほぼ40分ぐらいでしょうか。

ハイキングコース出口
一の谷川

 この道については、1885年の仮製地形図では、先ほどの一の谷と二の谷へ降りる道よりは少し道幅が広い道として記されています。須磨から鉄拐山の山頂を越えて多井畑・下畑方面へ抜ける道として、相対的に利用が多かったと見受けられます。ただし、現在のハイキングルートと比べると、妙見堂跡付近から先については少し位置が異なっています。現在のルートはここで見たように尾根上を南へ曲がりながら降りていきますが、明治の山道は尾根の北側の谷をつづら折りに曲がりくねりながら一の谷川の谷底へ急降下していっていたと読みとれます。

基図:参謀本部1/20000仮製地形図「須磨村」
(1885年測量、1898年再修正)

 あまりお勧めできないことですが、この古い地図通りに、妙見堂跡付近から道をはずして斜面をくだってみました。ただ、現在は少し降りたところで断崖絶壁になっていて、それより下へ行く道を見つけることができませんでした。

1885年の地形図で道が記入されている谷
断崖

 さて、このように現在のハイキングルートを明治の地形図と対照しながら歩いていくと、前回紹介したものとの二つのルートがあったことがわかるのですが、では「坂落とし」はどこからだろうと考えるとなかなか難しいです。また、前回も述べたようにそもそも坂落としは鵯越だという説に立つとこうした設問自体が意味をなさなくなります。さらに、仮に須磨説に立ったとしても、そもそも平家方の陣がどこにあったのか、伝承をそのまま信用するわけにはいきませんので、今のところ確定できないと言わざるを得ません。となると、どちらの坂道なのかの判断もできませんし、あるいはまた別の坂道が存在した可能性も否定できませんので、やはり今のところはなんとも言えないということにしかなりません。

須磨一の谷

今回はここまでです。来月、須磨編のまとめを掲載する予定です。