ふ だ し き   タイフーン
札×式  嵐  道中記 その3 後編


 暗い、何もない空間で、俺は過去の幻を見た。
 ただそれは、幻と言うにはあまりにもリアルで、けれど感覚など何もなく。
 ひとりでに動き、過ちを犯す自分を、遠くから見ているような、そんな幻。
 あの日、たくさんのヒトを殺した。
 そこには、純粋に殺しを楽しむ自分がいて、それでも心は冷めたまま。
 赤い液体を惜しみなく吐いて、動かなくなる、肉の塊。恐怖と戦慄を貼り付けたままの表情に、冷たく嘲笑を送って。
 ふと見やる、側の人間達。
 まだ三人も生きている。女が一人、男が一人、女の腕の中に居るのは・・・、生まれて間もない、ヒト。
 ああ、殺さなければ。殺さなければ、俺達は死んでしまうのだから。
 すらりと構えた鋭い爪に、三人の内のひとり、男の顔をした人間が視線をむける。
 その瞳には、強い願望の光があった。
 生きたい。生きたい。
 何があっても、生きてやる。
 殺さないでくれ、そんな懇願ではなかった。
 こんなところで、死ぬ訳にはいかない、生きるために、お前を殺してやる。男は言った。
 無駄な、ことを。
 そう思った俺の空虚な心が、少しだけ、揺れた。
 男は人間ではないようだった。けれど、弱りすぎていた。
 何故、そんなに生に固執する?敵う筈もないと、分かっていながら牙を向ける。滑稽だ。
 男は言った。
 守りたいものがある。生きて、守らなければならないものがある。
 守らなければ、いけないもの。
 その、女と子供か。
 そうだ。
 男は笑った。口端を吊り上げて。
 お前には分かるまい。
 侮蔑の笑みだった。
 また、俺は動揺した。どうして笑うことができる。もう、お前は死ぬのに。
 俺は死なない。大切なもののために、お前を殺して、生きてやる。
 俺は女を見た。女もまた、強い光をその瞳に宿していた。
 何故だ?
 ヒトは皆、死に直面したその時、恐怖し、懇願し、諦めの表情を浮かべるというのに。  この男が、人間ではないからか?では、あの女も?いや、女は・・・、人間だ。いままで殺してきたものと、変わらない。
 俺達は、死なない。絶対に。
 そう叫んだ男の身体を、死が貫いた。
 手を出さない俺に焦れた仲間が、攻撃を放ったのだった。
 血の海に倒れる男。赤い水溜りがじわじわと広がって、他の人間の血と混じる。
 変わらない色。何も変わらない。死んでいった人間達と、何も。
 人間では、ないくせに。
 思ったとたん、頭の中がざわついた。
 この男は、何者だ?何故俺は、動揺している?
 女もすでに、死んでいた。うつろに開かれた目に、生はなかった。
 それでも一瞬、光を宿したような、そんな錯覚を覚えて。
 粟立つ肌を振り切るように、その場を後にしようとした、そのとき。
 泣き声。
 何の?赤ん坊?
 振り返る。死んだ女の腕の中で、小さなヒトが泣いていた。
 まるで、自分の生を主張するかのように。
 俺はそれを持ち上げ、目の前に掲げてみせた。それは、ヒトと、ヒトではないモノが交じった、哀れな生き物だった。
 泣いている。生きている。小さな命。
 人間ではないあの男が、何が何でも守ろうとした命。
 人間ではない生き物でも、そんな感覚が芽生えるのだと、教えられた命。
 奪うことは容易かった。奪うのが道理でもあった。
 けれど俺はそうしなかった。
 それが何故なのか、そのときの俺には理解できないでいた。


***


「あ・・・れ?」
 微かな月光だけが辺りを照らす、狭く何もない部屋で、マイは目覚めた。
 ぼんやりと石造りの天井を見上げて、何がどうなったのかと思考を巡らせる。
(ええと・・・、確か、でっかい鳥にさらわれて、変な城に連れ込まれて、そんで・・・)
「あぁっ!」
 自分を品定めするような目で見た、その男の顔を思い出し、マイは勢いよく起き上がった。
 急に感覚がはっきりすると同時、自分の置かれた立場を思い出す。
「そうだ、あたし、気絶させられたんだっけ・・・」
 そして放りこまれたのがこの部屋ということだろう。殺されなかっただけ儲けものだ。
 マイは冷たい石の床に手を付き、ゆっくりと立ち上がった。全身筋肉痛にでもなったかのように身体のあちこちが痛んで、顔をしかめる。
「いったぁ・・・、もぉ、あの男、何してくれたのよ・・・」
 顔の見えないその男に毒付いて、マイは辺りを見回した。
 石造りの、本当に何もない部屋だ。鉄の扉が一枚。明り取りだけが目的とわかる、鉄格子が嵌められた窓と言えなくもないものが高い位置に一つ。背伸びをしても飛び上がっても、マイには届きそうになかった。
 となると、脱出経路はこの・・・。
「でも絶対カギかかってるよね・・・」
 痛む体を引きずって、鉄の扉に手をかける。それは引き戸のようだった。
 ダメでもともと、開かないことを承知で、マイはできる限りの力をこめて、扉を引く。
 ガラドカーン!
 扉は開いた。いとも簡単に。
「え、えぇええぇ!?」
 鉄のそれは、勢いのついたそのままに反対側で跳ね返ってくるほど軽く、滑りもよかった。
 良すぎた、と言うべきか。
 大外れした予想にマイは混乱するも、あっさり開きすぎた扉はかなりの騒音をも引き連れた。これでは敵に気付かれてもおかしくはない。
「あああああ!誰よ、カギ掛けわすれたのー!中に捕虜がいるってのに、ちゃんと掛けときなさいよねー!」
 自分の立場とは大きく矛盾したことを叫びながら、マイは近づく足音を覚悟した。
(うぅ、あたし、きっと今度こそ殺されるわ。だって妖怪が逃げようとした捕虜をみすみす生かしておくわけないもの。そんでそんで、この若い身空で塩漬けとかにされちゃって、おいしくいただかれちゃうのよー!!)
 絶望的な将来を予測しながら、石の壁にかじり付く。
 こうなったら最期の最期まで抵抗しまくってやると心に決めたが、いつまでたっても。
 いつまでたっても、足音はおろか、妖怪供の声さえ聞こえてはこない。
(あら・・・?)
 かじり付いていた硬い石から顔をあげ、きょろきょろと視線を走らせてはみるものの。
 誰も居ない。
 捕虜を閉じ込めておくような部屋がずらりと並んでいるにもかかわらず、見張りの一人もいないのだ。
 ただ、部屋と同じように石造りの廊下がそう長くもなく続いているだけ。
 これは。もしかしなくても。
「チャンス・・・・!?」
 キラリとマイの目が光る。脱出するなら今しかない。
 何か大変な事態でも起こっているのか、それともこの城では見張りはおかないことになっているのか。そんなことを考えたが、これは願ってもない幸運だった。
「何とかなるかもしれないわ」
 僅かな希望に思わず微笑んで、マイは慎重に歩を進める。
 誰も居ないとはいえ、敵地であることの意識から足音を忍ばせていたマイに、ふと目に付く扉があった。
 それはここに並んでいるどの扉とも変わらなかったが、どの扉とも違って見えた。
 否、見えた、と言うよりも、感じた、と言うべきか。
 何か暗い、禍々しいオーラでも放っているかのように、その扉、もといその部屋のある空間だけ、ドス黒く歪んでいる。
(嫌だわ・・・、何アレ・・・)
 気付かなければ良かったと後悔したが、マイも一応は術者の家系に生まれた娘。あれだけ自己主張の強い「気」が側にあれば、気が付くなと言うほうが無理な話だろう。
 付け加えれば、マイは気になるものがそこにあるとき、それを放ってはおけない性格だった。
 じり、と近づく。扉からの「気」は禍々しくはあったが、逃げ出したくなるほど凶悪なものではなかった。
 それよりもどこか・・・・、哀しい・・・・?
 その微かだった「哀しい」感じは、マイが扉に手を掛けた瞬間、大きく膨れ上がった。
(何が、そんなに・・・?)
 「気」を身体に浴びているマイのほうが、涙が溢れそうになってくる。それほどまでに、思いつめた想いなのかと、マイは扉を眺めた。
 扉には覗き窓などついてはいない。一体何がこの中に居ると言うのだろう。
 扉を引く。カギは掛かっていなかった。
 ざあ。
 冷たい冷気が頬を撫でた。同時に、あれほどまでだった、「哀しい」「気」は消え失せた。
 後に残ったのは、耳が痛くなるほどの静寂と。
 開けた扉の真ん前の壁に、一人の男。
 少年のように華奢な身体を壁に預け、月の光で銀にも見える薄い金髪をぐったりと項垂れさせている。長めの髪が顔に被さって、その表情は窺えない。
 生きているのか、死んでいるのかさえ、分からなかった。
 この男が、あの「気」を放っていたのだろうか。
 恐る恐る一歩踏み出す。
 男は動かない。それとも動けないのか。
(もしかして・・・、死んでる・・・?)
 可能性の高い動けない理由を思い浮かべ、もう一歩進んだとき、
「寄るな」
 低く押し殺したような声が空気を震わせた。
 驚いて身体を強ばらせるが、男は変わらずぴくりともしない。けれど間違いなく、その声は目の前の男から発せられたもので。
「い、生きてる、の・・・?」
 変に裏返った声でそう訪ねるが、男はそれ以上何も言わなかった。
(寄るな、って、そんなこと言われても・・・)
 もしかして、この男は瀕死なのではないか?そんな者を目の前にして放っておけるような精神を、マイは持ち合わせていなかった。
「あの、大丈夫?」
「・・・・・」
「あたし、ちょっとなら回復させてあげられるかも、しれないけど・・・」
「・・・・・」
 何も返してこない男に、マイは再度近づいた。
「寄るなと言っている」
 さっきよりも鋭い、けれどどこか切羽詰ったような声。金の髪の隙間から、男は冷たくマイを睨んだ。
 碧く、濁った瞳。
 マイの心臓が大きく跳ね上がった。
(違う・・・、このヒト、人間じゃ、ない・・・!?)
 瞳を見て初めてわかるほど、人間に近い形をしたソレは、急にビクリと身体を震わせると、何かに耐えるように頭を押さえ込んだ。
「いっ・・・、あ、あ、うぁ、・・ぁ・・・!」
 目を見開き、汗を流して、それは、彼の頭からぎし、と骨の軋む音が聞こえてきそうなほどの苦しみようで。
 その様子にはっとしたマイは慌てて駆け寄った。
(妖怪だからって、何だって言うのよ!こんな・・・、苦しそうにしてたらほっとけるわけないじゃない!)
「だ、大丈夫!?一体、なにが・・・!」」
「あ゙ぁ・・・ぁッ、だ、駄目だ、・・・・よ、るな・・・・ッ!!」
 尋常ではないほどに指を頭部にめり込ませ、彼が悲痛な声をあげる。
「逃げろ、早く・・・、俺の、目の、届かないところへ・・・!!早く・・・ッ!!」
「そ、そんな・・・!」
 一体、何が。
 マイの頭にはもうこの一文しか浮かんではくれなかった。男の急変ぶりに思考が混乱して、「逃げる」ように身体が働かない。
 それよりも、「何とかしなければ」と、彼女が呪術用の気を高めた。刹那。
「あぁッ・・・!!!」
 彼がひときわ大きく叫んだ。ビクリ、身体を痙攣させる。
 そして腕をだらりと床にあずけると、うなだれたまま、また動かなくなった。
 しん・・・。
 静寂が訪れる。
(え・・・?)
 マイは混乱したままだ。何がどうなって、この男は動かなくなったのか、訳がわからない。
(まさか、今度こそ、死・・・・?)
 ドクン。
 その音に始まって、心臓がうるさいほど早鐘を打ち出す。
 一体本当に、何が起こったと言うのか。誰か教えて欲しいと思いつつ、マイはそっと彼に手を伸ばした。震えている。
 その手を、彼が掴んだ。異常なまでの速さで。
「えっ・・・!?」
 マイは驚愕に目を見開いた。掴まれた手を凝視し、続いて彼の顔を見やる。
 彼はうなだれていた頭をゆっくりと上げ、マイを見つめ返した。
 けれど、そこに居たのは、さきほどまでの彼ではなく。
 どこか虚ろな瞳をした彼の口元が、うっすらと歪む。
 恐怖さえ覚える、確かな笑みの形だった。


***


「ゲームをしようと思うの」
 艶美な仕草で近づきながら、その女は言った。
 ヒールの踵がコツリと音を立てて、危機感のような焦りを煽る。
「ゲームなんてどうでもいい、兄さんはどこだ」
 彼女を睨みつけ、声が荒げるのを堪えているらしい紺がうなるように低く言い放った。
 女はくすくすと静かに笑う。
「大きくなったわね、坊や。相変わらず兄さんべったりなのかしら?」
「話をはぐらかすんじゃねェよ、リアン」
「ああ、オトネも喜んでいるわ。アナタと一戦交えたいそうよ?結果は目に見えてるけれど」
 どうやら答える気はないらしいことを悟って、紺はもはや何も言わなくなった。じっとリアンを凝視する。
 その瞳に、出来る限りの嫌悪を込めて。
「そんな見つめないでくれるかしら。穴が空きそうよ」
 言いつつも笑みは崩さず、余裕でそれを受け取ったリアンは、ゆるりと視線を移動させた。
 紺の隣、緊張とも警戒とも取れる曖昧な表情を浮かべた、一人の少女。
「アナタが、如月ミコトさん、ね?」
 濃黒の瞳が、不敵に細められた。ミコトは怯むことなく彼女の視線に睨みを返す。
「そうよ。マイをどこへやったの」
「あら、紺と似たようなこと言うのね。アナタ達、気があうのかしら。いいわね、若いって」
 ホホホ、と笑ってはぐらかされる。
 紺はギシリと奥歯を噛んだ。だいぶ苛ついているようだ。
 そんな紺に視線を送って無言でたしなめ、油断なくリアンを見やる。
 今の、紺とリアンの会話で、いくつかわかったことがあった。
 まず、紺と、多分七里も、この妖怪姉弟と面識がある、と言うこと。そして、紺達はこの姉弟を良く思ってないらしいと言う、二点。
 ないらしい、なんて温和な言い方をしなければ、紺がリアンに向ける視線には憎悪さえ感じられる。
 けれど今はそんなことどうだっていい。
 彼らの過去を詮索するほどの余裕と言うものが、ミコトにはなかった。
 嫌な予感がする。
 全身が心臓にでもなったかのように、大きく脈打つ。
「ゲーム、始めましょうか」
 リアンが言った。真っ赤な唇を微笑に歪ませて、右手をすらりと真横に伸ばす。パチ、火花が散った。
 何もなかったリアンの右手から、暗い空間が呼び出される。火花は更に大きな音を立てた。
 鈍い闇色の空間は鋭い破裂音と共にどんどん広がり、ちょうど、人が一人納まるくらいの大きさになった。火花は散り散りに消え失せる。
 その中から、金糸が覗いた。
 金糸はゆらりと揺れて、闇の靄を払ってゆく。そしてその下にあったものを、露にさせた。
 虚ろな碧い瞳と。生を感じない白い肌と。
 それに捕らえられているらしい、黒髪の少女を。
「兄さん!」
「マイ!」
 現れた人影に向かって、二人は同時に叫んでいた。


***


 すでに消滅した黒い空間から、七里とマイは現れた。
 苦痛に耐えるように瞳をきつく閉じていたマイは、自分を呼ぶ聞き慣れた声にぎょっとして顔を上げた。
 そこにはやはり見慣れた顔が三つ。ミコトとミヤとサオ。
「え?な、何であんたがここに、ってか、あれ!?さっきまで牢屋みたいなとこに、えッ?何、どうなってるの!?」
 頭が混乱して思考が定まらないマイに、リアンがにっこり微笑みかける。
「アナタのいたところは、あたしが作った幻想の監獄ヨ。絶対に逃げられないから見張りも施錠もいらないの」
 作った本人だけが好きなときに呼び出せる、そう言う仕組みになっているらしい。
 マイは唖然としてリアンを見上げた。
 金髪の男に腕をねじ上げられて、立たされて、そしたら黒い穴のようなものがそこにあって。それが迫ってくるから目を閉じたら、いつの間にか、こんなところに。
 そして今の状況は、非常にヤバイ。これに限る。
 自分は敵の側に捕われ。この女は多分、大ボスで。ミコト達の戦力よりも上回っていること間違いなしで。
 掴まれた両手首が痛かった。合わせた唇は小刻みに震えた。血の気が引いて、寒かった。
 もう、本当に駄目かもしれない・・・。
「マイ!」
 きつい声音にはっとする。ミコトが、マイを見据えて、言った。
「絶対助けるから!あたしも死なないから!誰も死なせないから!!」
 信じて。
 小さい頃、木から落ちそうになったときがあった。真下で両手を広げるミコトが、同じことを言っていた。
 大丈夫、信じて。
「・・・うん、わかった。信じる、ミコト・・・」
 そう言って、マイは木から手を放した。今も、同じ。
「残念だけど?」
 おもしろがっているような含み笑いと共に、マイの頭上から声が降る。
 彼女の腕を捕えていた男が、マイを側に控える妖怪にあずけ、一歩前に出た。
「お前らはここで仲良くおねんねすんだよ。ウツクシイ友情ゴッコもほどほどにしてくれ」
 でないと俺鳥肌立ちっぱなしで気持ち悪いから、そう言ってまた笑う。
 その男は、どこからどう見ても、七里。
 銀に近い金の髪に、白い肌に、碧い瞳に、少年のような肢体。前と少しも変わらない、高めの声。
 けれど違う。
「こ、紺くん・・・?」
 説明を求めようと彼を見やると、まさか、とつぶやいた驚愕と絶望の表情。
「オトネ・・・」
「えっ!?」
 オトネと言ったら、リアンの弟で、この山を支配している妖怪姉弟の片割れ・・・であったはず。
「それがどう・・・」
「兄さんの中に、オトネが、いる・・・!」
「は・・・!?」
 何だって?どういうこと?何でわかるの?
 一瞬のうちに様々な疑問が頭の中を駆け回った。が、いずれも音にならず、ミコトはただただ呆然と紺を見つめる。
 七里の中に、オトネ。と言うことは、今喋っているのは・・・。
「そっ、俺様だよーん」
 バッチンとウインクをかまして七里姿のオトネが言った。ちゃらちゃらした七里も恐ろしい・・・。
 複雑な心持でゴクリと咽を鳴らしたミコトに、紺が悔しそうに呟く。
「あいつ・・・、兄さんの身体を、乗っ取りやがったんだ・・・!」
「乗っ取る・・・!?」
「それがアイツの能力なんだよ。リアンの監獄は奴の妖力内、だから兄さんの身体も乗っ取ることができたんだと思う」
 くくく、オトネが咽の奥で笑った。色あせた碧色の瞳が楽しそうに揺れている。
「ものすごい抵抗されたぜぇ?無駄なことだったけどな。まぁ俺もわざと痛いように入ってやったんだけど。見せてやりたかったぜ、兄さんの苦痛に歪む、あンの顔」
 くっくっく。
 思い出したように笑い声を上げて、紺を煽る。わざと挑発的に言葉を選んで、兄の顔で兄を侮辱する。
 それが奴の手口だと、わかっていても。
 わかっているからこそ。
 ヒュッ。
 紺の拳が、空気を鋭く切って繰り出された。
 オトネはひょいっと軽くあしらうと、地面を蹴って紺から離れる。
 拳は石の床にめり込み、痛々しい亀裂を作った。
「いーのかよォ、兄さん殴って?こーんなにキレイな白い肌に傷がついちまうぜ?」
「るさいッ!テメェらだけは、絶ッ対許さねぇからな!!」
 余裕を主張するオトネに、紺は激昂した。
 身体が怒りに震えている。けれど、頭のどこかでは冷静なのだろう。
 兄の身体を、たとえそれが敵なのだとしても、やはり気遣っている。いくら我を忘れようとも、彼は本気ではオトネを攻撃など、出来はしない。
 絶対に、出来はしないのだ。
「紺君、あたしが・・・!」
 辛そうだ。見ていられない。ミコトは見かねて声を掛けた。
「駄目だ!手ェ出すんじゃねェ、ミコト!コイツは、俺が・・・!」
 じゃきり。
「コイツは俺が・・・?そんなこと言っていいのかな〜紺君」
 紺がミコトを振り向いたその一瞬の隙に、オトネは間合いを詰めていた。
 そして咽元には細身の刀。
 首筋に当たる、確かな金属物の冷たさに、紺は動けなくなった。
「俺に敵わないって、見てわかるだろ?わかんないほど、オバカさんじゃねーよなぁ?」
「敵わなくない。お前は、俺が殺してやる・・・!」
「くく、だったら本気で殺しにくれば?兄さんとあの娘が死んでもいいんならだけど」
 どっ。
 肉と骨を斬る、嫌な音がした。紺は目を見開いた。
 刀を片手に持ったオトネが、紺の背中にその銀を振り下ろしたのだった。
「あ・・・、ぐッ!」
 鮮血が飛び散って、膝をつく。背中が焼けるように激痛を伴う。
「んーんん、カイカ〜ン。生身のヒトを殺るって、やっぱやめらんねーわ」
 返り血で曇った刀を、満足そうに見やるオトネ。その顔は、七里。
「に・・・いさんの顔で、そんな表情、すんじゃねェ・・・ッ!」
 ぎしり、頭の奥で音がする。怒りに血液が沸騰しそうだ。どうせなら逆流してしまえばいい。そして自分を見失ってしまえばいい。
 そしたら兄も自分も、楽になれるのかもしれない。
「あ?気に入らねーか?この顔。どんながお好み?なるべくお応えしますぜ?」
 あっはっは。また笑う。
 やめろ。やめろ!
「やめろォオ!!」
 叫んで、走って、拳を振り下ろして。けれど、実力の差は歴然。
 ただ嬲られるばかりの紺に、視線を固定して。ミコトはじっとそれを睨んでいた。
「よいのか、助けに入らなくて」
「あのままじゃあの兄ちゃん、死んじゃうぞ、コトッ!」
「・・・いいのよ、見てなさい。見なきゃ駄目。目をそらしちゃ、いけないのよ」
 あの人が、命を賭けて守ろうとしているものを、目に焼き付けて。
 そうして、生きて。死なないで。信じているから。
 刃の銀が、煌いた。
「あんま調子乗ってんじゃねーよ」
 何度目かになる、オトネの攻撃。それは紺のわき腹あたりを直撃した。
 どん、刃が身体にめり込む。
「がッ・・・!」
 うめいて倒れる、紺色の長い髪。床に伏して、新たな鮮血でそれを赤く染め上げる。
 手ごたえは充分あった。斬っても突いても立ち上がる紺に少し焦れたオトネが、無意識に出した手加減無しの一撃。動かなくなった紺を見下ろす。
「ヤベェ死んじゃった?・・・ま、いっか、もっと遊べるかと思ったんだけど・・・」
 溜息を吐き出し踵を返した彼の背後で、ずるり、妙な音がした。
「まだ・・・、死んでねーぞ、オトネ・・・!」
「え・・・?」
 振り返る。彼は立っていた。全身を真っ赤に染めて、けれど自分の足でその地を踏みしめ、しっかりと。
(な、何で立てるんだよ・・・!あの一撃は致命傷のはずだぞ!?)
 信じらんねぇ。
 動揺を隠し切れないオトネに、紺はしてやったりとばかりにニィ、と笑って見せた。
「俺は死なねーよ。オラ、かかってこい、オトネ!」
 どくん。
「ケ、ゴキブリ並の生命力だな!次で終わりにしてやるよ!」
 どくん。

 何があっても、生きてやる・・・・!!

 どくん。

(何、だ・・・?)
 オトネは内心眉をひそめた。身体のずっと奥で、何かが蠢くような感覚。
 どくんっ。
「ぐッ・・・」
 一段と大きく、身体が軋むほど脈打ったそれに、オトネの刀は軌道を反れた。
 紺の髪の毛を微かに薙ぎって、力なく振り切る。
「何だァ、オトネ、やる気なくなった・・・かぁ?」
「ふ、肩で息してるような瀕死のヤツに言われたかないね」
 軽口を叩きつつ、激しい痛みを伴いだした頭にオトネは焦った。
(んだよ、こりゃぁ・・・!どうなってんだ・・・!?)
 頭痛はなおも激しさを増し、脈打つ身体は熱を帯びる。それは内側からの警告のようで、気を抜くとそれこそ意識が飛びそうだった。
 こんなことは今までに例を見ず、ぞれでもオトネは刀を構え直す。
(どうってことねぇ、んな痛み!)
「次で終わりだ!」
「そのセリフは聞き飽きたぜ・・・!」
 同時にダッシュ、後を追うような出血、壊れそうなほどの頭痛。
 それぞれが死にそうな痛みを押して、繰り出す一撃。
 紺が間合いに飛び込んだ。ぎし、柄を握る手に力がこもる。煌く銀色。
 ヤツは避けきれない!
(もらったぁ!!)
 ドンッ。
「な、ッ・・・!」
 驚きの声を上げたのはオトネだ。
 彼の突きの一撃は、紺の肩を貫通した。完璧に心臓を狙ったはずなのに。目を見開く。
 その一瞬を突いて、紺はオトネの腕を掴み、刀を引き抜けなくした。自分の血でまみれた兄の細い腕は、体温など微塵も感じられなかった。
「やっとお近づきになれたなぁ、オトネ・・・!」
 ぎりり、思わず奥歯がきしんで。
 我に返ったように体制を整えようとするオトネの身体に、右拳を食らわせようとした、刹那。
 どくんっ!
「あ、・・・ッ!?」
「!?」
 腕を捕えたオトネの、正確には兄の身体から、一瞬確かに力が抜ける。
 額を押さえ、うめく彼に、この場にいた誰もが目を見開いた。


***


 ヤメロ!
 頭の中で声が響く。叩き割れそうな頭痛は更に酷くなる。
(何だ!?)
 俺ノ身体ヲ返セ!
(誰だ!?)
 返スンダ!オトネ!
(七里・・・・ッ!!?)
 そんな、バカな・・・!!

 どくんっ!

「あああああッ!!!」
 絶叫が辺りを支配した。紺に腕を掴まれたまま、身体を反らせて叫んだ彼は、急に力を失い倒れこむ。
「え・・・っ!?」
 何が何だかわからず、それでもその身体を受け止め、紺は動揺する頭を整理しようと必死になった。
「何で・・・!?」
 受け止めたそれには力など全く入っておらず、重力に任せて紺の腕に寄りかかる。全身の傷が悲鳴を上げたけれど、紺はその手を離さなかった。
「う・・・」
 腕の中の彼がうめいた。うっすらと瞳が開かれる。その瞳はすぐ側の紺を捕らえ、安心したかのように潤んで。
「紺・・・」
「兄さん!」
 兄の瞳には光が戻っていた。
「お前の声が・・・、聞こえた・・・」
 掠れた声を何とか絞り出すと、頭を強く打ったかのようにひどく痛む。
「兄さん、もう喋らないほうがいいよ」
 それを言うならお前のほうが重症だろう、と痛々しく血を流す体に七里は顔をしかめた。
 自分でなかったとはいえ、何てことをしてしまったのだろう。あまりの不甲斐なさに涙が出そうになった。
 けれど、良かった。紺が死ななくて、良かった。この手で傷つけてしまったことに、後悔の念は消えることはないけれど。
「オトネ・・・」
 震える声でもう兄の中にはいない彼を呼んだのは、リアンだった。
 はっとそこにいた全ての者が彼女を見やった。
 今まで悠々と一部始終を眺めていた彼女は、座っていたソファから腰を上げ、その美しい顔を驚愕に引きつらせている。
「消えた・・・オトネが、」
 見開かれた瞳は、信じられないとでも言うように、何も映してはいなくて。
「もう、あたしの中にもいない・・・」
 そしてその暗黒の瞳から、音もなく涙がこぼれおちた。一筋のそれは彼女の手の平にぱたりと染みを作る。涙は止まることを知らないかのように次々と流れ出ては、彼女の手中に消えた。
「かわいそうなオトネ・・・」
 リアンは零れ落ちるそれを拭おうともせず、ゆらりと視線を七里に放った。
 その視線を受け止めた彼は、背筋にこれまでにないほどの悪寒を自覚し。けれど何もなかったかのように紺の腕を押しのけ、立ち上がった。
「兄さ・・・」
「平気だ、紺。お前の方こそ、もう動けないんだろう」
 図星を指され、ぐっと言葉に詰まった彼に少し微笑んで、七里はリアンに向き直る。
「乗っ取られた俺の精神は、消えていたわけではなかったよ。隅のほうに閉じこめられていただけだった。その檻を壊すのには、かなりの精神力と集中力を要したが・・・」
 リアンは微動だにせずそれを聞いていた。
「・・・オトネは死んだよ」


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