
マーキュエル・ストーリー
それは、広大な海の中で起こった、小さな物語。
「セーラス」の僅か一部分が舞台の、少人数が関わる、静かな物語。
…しかし。
その、関わった者達は…この物語の前後で、自らの運命の道を、大なり小なり違えて行くことになる。
けど。その事を、彼らが理解するのは−
…今しばらく、後のこと。
SECOND STORY・始原地への旅 −1−
眩しいほどの太陽が、命を躍動させる海。
星と月が、静かに命を包む海。
敢えてどちらかを選ぶとすれば、少年の場合は後者だった。
だから彼は、夜の海に浮かぶのが好きなのだ。
…物心ついたときから−3歳の時からだから、12年程前か−そうだった。
そして、今も。
半ズボンだけで、海面をベッドのようにして、微かな波に身を委ねている。
月光と星の光は海一面に広がり、その下で眠る命達を優しく見守る。
ぴちゃん…と、微かな音。
エメラルドグリーンの瞳から流れる、数粒の雫。
「また…お父さんたちのこと、思い出してたの?」
柔らかく優しい声が、彼の鼓膜を緩やかに刺激した。
「…いたのかよ…。」
涙を指で軽く拭って、姿勢を変えずに声に答える。
「寝ようとしたら、シオが浮かんでたんだもの。」
「海の中で寝られるなんて…便利だなぁ、マーキュエルって。」
マーキュエル。海の中に生き、数多の生命を見守る天使。
シオと呼ばれた少年の隣で、海面に肘を突いている少女も、その1人だった。
「…明日、だね。」
「…ああ。」
「念を押すけど、決意は揺るがない?」
「…ああ。」
「…そ。」
少女は肘を海中に降ろして、潜る体勢を取り−
「セーメ。」
自分の名を呼ばれ、少女−セーメは、シオの顔に視線を戻す。
「ん、何?」
「ちょっと気になったんだけど…。マーキュエルって…何でそんなに、自分のランク上げにこだわるんだ?」
マーキュエルには、3段階のランクが存在している。
セーメに代表される、人間と接触することも可能な最低ランク−『ティクス』。
彼女達がこれから上がろうとする中級ランク−『ノルム』。
そして、さらにその上−未だ数えるほどしかいない、最上ランク−『フーティ』。
マーキュエル達は、自分のランクを上げるために、遥か南の地「胎動の海」へ向かって、旅をする。
「う〜ん…。…こだわるっていうか、本能みたいなものかな。」
「本能?」
「そう、本能。…私たち、時が経つにつれて、自分の力が強まっていくの。」
「ああ…それ、婆ちゃんから聞いた。」
「でも、その力を…このままの姿で保つことは不可能なわけ。」
「…ひょっとして…その強まっていく力が、体内に収まりきらない…とか?」
セーメはうなずき、言葉を続ける。
「だから…私たち『ティクス』は、ある時期がきたら<胎動の海>へと向かうわけ。新しい力の器を手に入れるために、ね。」
「…なるほど。」
数秒の、静寂。
「…って…あれ? でも、何でその…<胎動の海>への行き道が分かるんだ?」
「…分かるんじゃないんだ。『知って』るんだよ、気が付くと。」
「…知って、いる…。」
「うん。マーキュエルはね、教えてもらうことは無い。自分がマーキュエルになったと気づいたとき、必要な知識は全て持ってるんだよ。」
「…凄いな、なんだか。」
思わず、ため息が出てしまう。
自分が探究心の塊と思ったことはあまり無いが、こうやって、自分の知らないことを自分の手で解き明かしていく…というのは、つい気分が高揚してしまう。
…だが…今は、それ以前にやることがある。
「…じゃあ…、…また、明日。」
「ん…、ああ。」
セーメの姿が、静かに海の中へ消える。
「…。」
少年は、思う。
父も、母も、この月を見ているのだろうか。
この海の中に、セーメのように身体を委ねているのだろうか。
中睦まじかった、昔のように−
−そして。
太陽が、海を輝かせる。
−2−
「…セーメ?」
それは、人ごみの喧騒を突き抜けて、彼女の耳に届く。
自分の名がやって来た方向を向くと、1人の少年の顔があった。
年齢は、セーメより少し上…18歳くらいだろうか。
淡い青色の長髪とコバルトブルーの瞳を併せ持ち、微笑を口元にたたえている。
「…あ…。」
ゆっくりと近づいていくセーメ。
「…来てたんだ、ここに。」
「ああ…、昨日着いた。セーメもか?」
「うん。…あれ…ねえ、カイリは?」
「…え…、さっきまで一緒に…」
「カイリっ!」
弾むような声を伴って、簡単に髪を結わえた1人の少女が二人のもとに駆けて来た。
年は同じくらいだが…セーメより、少し背は低い。
漆青の瞳と、銀色と水色を組み合わせたような髪を持っている。
「もう、1人で勝手にどこかに行かないでよ!」
「あ…っ。…悪い悪い、いなくなったの気づかなかった。」
「ったくも〜…。」
手をあわせて謝る少年に、少女は頬を膨らませ−
その肩越しで微笑むセーメを、目に止める。
「…何、笑ってるのよ。」
「ううん…ただ、いつも仲がいいなって…。」
「羨ましいんだったら、セーメも見つければ? あたしがクロルを見つけたみたいに。」
「…いや…今は、そういうの…別にいい。」
セーメの言葉を聞いた途端、少女−カイリが、眉をひそめる。
「…あんたねぇ…まさか、ちょっと前に同じ質問したときと、全然考え変わってないの?」
「な、何よ…悪い?」
たじろぎながらも答えるセーメに、カイリは大げさに肩をすくめ、
「…はぁ…あんたってさ、マーキュエルになる前からよっぽど海が好きだったんだね…。…まさか、前は人間じゃなくて、鯨とか魚だったんじゃない?」
「…はは、は…。」
頭を掻きつつ、返答に困って苦笑いを浮かべる。
と、その瞳が一点に集中した。
「…あ…っ、シオ!」
人ごみをかき分けて、彼女の元へとやって来るシオに向かって、手を振るセーメ。
「どうだった、舟の件?」
「ああ、話つけてきた!」
『!』
瞬間、少年−クロルと、カイリの顔に、緊張が走った。
「…人間…!」
「セーメ…どういうこと!?」
その反応は、シオにも変化を与える。
「…まさか…マーキュエ、ル…? …セーメ以外の…?」
「あんた…!」
カイリの叫びは、そこで止まる。
人ごみの中での議論は、さすがにはばかられたのだろう。
4人そろって、人気の無い場所に移動し−
「…で…あんた、一体誰? どうして、私達のことを?」
「……。」
解答の是非を、視線でセーメに問う。
…彼女の首が縦に振られたのを見て、シオは話し始めた。
「…嘘…正気なの?」
「自分の両親に…会うため、だと?」
大きく見開かれる、2人の瞳。
「…あんたも、セーメも…本気で言ってるの、んなこと!?」
「胎動の海に行くことを許されているのは、俺たちだけだ。ただの人間には…その資格も、力も無いんだぞ。」
「…そんなこと…、関係ない! 俺は、あそこに行かないと…!」
「自分が何を言っているのか、分かっているのか!? 身のほど知らずも甚だしいぞ!」
「だから、そんなこと関係ないって言って…!」
「っ!」
激昂したクロルの拳が、シオの頬をとらえる。
…が、倒れない。
口からうっすらと血を流しつつも、その瞳は、まっすぐに彼らを見つめている。
「…。」
わずかに気圧される、クロル。
「絶対に、渡さないと…いけないものが、ある。」
「…。」
「俺は…もう一度、2人に会いたい。」
「…。」
「…そして…それで、自分に…決着をつけたい。」
『…。』
「能力とか資格とか…俺は、そういうもので行くんじゃない!」
シオの拳が、強く握り締められる。
「…俺の…意志で、行くんだ!」
軽い排気音を伴って、小型のモーターボートが海へと出て行く。
それを操っているのは、シオであった。
そして、ボートの少し前を、セーメがゆっくりと泳いでいく。
「…。」
少し腫れた頬を軽く押さえつつ、シオは水平線を見つめる。
「…。」
自分に、決着をつける。
舌戦の最中に滑り出たその言葉は、これから行く場所に由来するものだった。
「…逃げていた、のかもな…。」
「どしたの? また考え事?」
セーメの声に、彼の意識は現実に引き戻された。
彼女は、こちらに顔を向けつつも、泳ぎを止めてはいない。
「お、おいおい、魚達をどかせないでいいのか?」
「ここら辺は人間たちの領域だってこと、分かってもらってるから。」
魚達と意志の疎通を交わし、船の通り道で彼らが命を落とすことを避ける。それが、基本的なマーキュエル『ティクス』の役割−と、伝えられているものだが…セーメに言わせれば、正しい伝承であるという。
「あ。言っとくけど、人が魚を捕まえたりする事とは矛盾しないのか、なんて質問しないでよ。生きるための捕食云々については、ちゃんと認めているんだから。」
…以前セーメと話をしていた時、マーキュエルの役割に話題が移ったときの彼女の言葉であった。
「で、話戻すけど、考え事してた?」
「…、…うん。」
珍しく顔を背け、言葉を濁すシオ。
「…あ…、まずいこと聞いたみたい…ね。」
「いや、そんなことないよ。…ただ…これから行く場所が…。」
「これから…?」
しばし、首をかしげて−
セーメは、目を見開いた。
「…! あの事故現場!」
うなずく、シオ。
これから彼が進んでいこうとする海路の先で、あの漁船爆発事故が起こっていたのである。
「…じゃあ、そのボートに積まれている花束って…。」
再び、うなずく。
「…大丈夫…なの?」
「…うん。…もう…目を、逸らしたくないんだ。」
「逸ら…す?」
「今まで…何度も来ようと思ってたのに、どうしても足を向けられなかった。あの場所に、面と向かう勇気が無かった。」
「……。」
「…けど…俺の父さんと母さんは、そんな俺に会いたいと思わないはずだ。自分の弱い心に背を向けている…俺なんかに。少なくとも俺自身は、…このままだったら、顔向けできない。」
「…。」
「…セーメ。」
「…何?」
彼女の瞳を見据え、シオは自分の思いを放つ。
「俺を…連れて行って欲しい。」
セーメが、笑顔でしっかりとうなずいたのは、数秒後のことであった。
−3−
−ボートを走らせること、約半日。
柔らかな陽射しが、その色を朱へと変える頃。
「…見えてきたよっ!」
前方を泳ぐセーメが、こちらに顔を向け、一点を指さして叫ぶ。
少しずつ、ボートの速度を落とし−
「…この下に…。」
「…うん。船の残骸が沈んでる。」
…セーラスの海がどれだけ透き通っているとはいえ、やはり光が届く限度というものは存在する。ましてや、今は夕暮れ時。どれだけ目を凝らそうと、ボートの上から眺めるシオの瞳に、船は映らない。
シオは、花束をそっと海面に置いた。
数刻もたたないうちに、それは海中へと沈む。
「…。」
ずきり、と、彼の心に楔が打たれる。
覚悟もしていた。目を逸らさないと、誓った。
…だが…それでも、やはり−
ボートの淵を掴んでいる彼の手に、力がこもっていく。
唇を噛み、涙が溢れそうになるのを必死にこらえる、シオ。
「…。」
やや離れた所で彼を見守るセーメにも、シオの表情がはっきりと見えていた。
そこにあるのは…例えようの無い悲しみと、悔恨。
…定期船に乗っていたときに聞いた話では、彼はいつも、両親の死に様を夢に見るという。
とは言っても、実際にそれを見たわけではなく、生き残った漁師達の話や、事故を再現したニュース番組によって、頭の中で構築されたものなのだが。
…当時、漁師の見習いという立場だったシオは、このときの漁への参加を許されていなかったのである。
−自分が今まで経験した、両親との幸せな思い出。
−そこに突然、文字通りひびが入り、崩壊し…気づくと、自分が燃え盛る漁船の前にいる。
−両親が乗っている船と分かるも…何も出来ない。
−やがて、船は沈み、爆発を起こし−
…そういう夢を見てよく夜中に飛び起きる…彼は、そう語った。
「…シオ…。」
セーメは、願わずにはいられない。悪夢の呪縛が、この旅で解き放たれることを。
…そして、彼の願いがかなうことを。
−その時、だった。
ざぁ…と、静かな音が響く。
しかし…周囲を見渡しても、そこに波は起こっていない。
それに伴って、ボートからやや離れている海面の色が変わる。
…それは、かなりの速度で、セーメとシオに向かって来た。
「え…っ?」
セーメの疑問符は−
数瞬後、叫びへと変わる。
魚の、群れ。
地球での、いわゆる「サバ」。それを2周りほど大きくしたような魚が、大量の群れをなして、彼らへと向かってきていた。
数百…数千…いや、それを遥かに超える数で、まるでモーターボートのような速度を保ち−
「きゃぁ…っ!」
「な…っ!」
セーメが。次いで、シオのボートが、その群れに飲み込まれる。
魚群に、悪意や敵意は、微塵も無い。
第一、そのようなものがあれば、遥か遠方でセーメが気づいているはずである。
だが、そもそも群れを作るのは、それぞれの個体が弱いからこそ。
自らを犠牲にして、種を守り抜く…そのような「本能」に支配されている彼らは、こちらに敵意を向けないものをただの障害物とみなし、別の個体に引き寄せられていくなり、そのまま突き進んだりして、その泳ぎを止めることはない。
…故に、その障害物に対する慈悲や、それをわざわざ避けようという殊勝な心がけなど、持ち合わせていなかった。
突然の衝撃が、ボートを大きく揺らす。
「う、わ…!」
慌てて両脇を掴むも、それ自体が揺れていては無意味。
あたかもそれは、突然の鉄砲水が襲ってきたようなものだった。
一瞬の後に、ボートは後方へ引きずられ−
そして、間を置かずに、バランスを著しく崩し−
「っ…!」
シオを、海へ…いや、魚群の真っ只中へ投げ出した。
「シオっ!」
魚群から一足先に抜け出していたセーメが見たものは…魚に取り囲まれ、そのまま引きずられていってしまいそうな、シオの姿。
如何せん、魚の数が多い。加えて、その苛烈なまでの勢いと、それによって生じる海流が、彼の身体の自由を奪っていた。
「…っ!」
セーメは、魚達との距離を縮め、彼らに<言葉>を投げかける。
…それは、実際の言葉ではない。
思念波…と言い換えるのが、最も近いだろうものであった。
−今の進路を、変えて…お願い!
…だが…方向は、変わらない。
魚群の一部にしか、<言葉>が伝わっていないのである。
もう一度<言葉>を投げかけるも、結果は同じ。
さらに、もう一度。…同じ。
もう一度。…同じ。
「…そんな…、これが…私の限界…!?」
彼女の頭を絶望が駆け抜けたのは、ほんの一瞬。
それは僅かの間に、シオを助けようとする意志に変化し−
「っ!」
魚群の中へ、その身を躍らせた。
瞬間、彼女の身体が、魚の奔流に巻き込まれる。
流されそうになりつつも、必死に目を開け、シオに向かって手を伸ばし−
その時。
<言葉>の二重奏が、魚達の間を巡り、セーメに届いた。
彼女自身も、咄嗟に自らの<言葉>をそれに乗せ、三重奏へと変える。
魚達の間にのみ響き渡る、<言葉>の渦。
魚群が、Yの字型に割れていく。
その分かれ目から、シオがゆっくりと姿を見せた。
「シオ!」
気を失い、沈んでいくシオを、セーメは慌てて抱きとめる。
そしてすぐに、海上へと持ち上げた。
…呼吸に、異常は無い。
思わず、安堵のため息をつき−
「…まったく、無茶するんだから! こっちが肝を冷やしたわよ!」
「!?」
「声をかけようとしたら、いきなり群れに飛び込んでいくんだからなあ…。」
声の先には…数時間前、先に海へと出ていた2人が、顔を出していた。
「…クロル、カイリ…!」
セーメは、シオを抱いたまま2人に近づき、
「…もう、胎動の海に行ったのかと…。」
「ま、この身体になって物心ついたときからの腐れ縁だしね。」
と、肩をすくめて、カイリ。
「それからすぐに俺も加わって、約束してたもんな…一緒にランク上げようって。」
「胎動の海で待ってようかと思ったんだけど、どうせこうやって出会ったことだし。あんたとそいつに付き合ってみるのもいいかな…なんて思って。」
「…2人とも…。」
セーメの顔がほころびかけた、その時。
微かに、シオの指が動いた。
「…う…。」
「シオ、大丈夫?」
「…げほ…っ、ごほ…、…ああ、大丈夫…ありがと、セーメ。」
「じゃ…手、離すね。」
ゆっくりと、シオから離れていくセーメ。
「ほんっと不便なんだから、人間ってのは…。」
「まったくだな。」
言葉を交わすクロルとカイリに、シオは顔を向け、
「…2人も、ありがと。セーメと一緒に、魚達に呼びかけてくれて…。」
…沈黙。
「…え?」
「…今…何て?」
「いや…だから、魚達に呼びかけてくれて…それで、進路が分かれたんだろ?」
「…え…、ちょ、ちょっと待ってよ、シオ…。」
「?」
「…声が…聞こえた、の?」
「…ん…ああ。」
『……………。』
硬直する、4人。
その言葉の意味を理解し、絶句するセーメ達。
一方、意味がわからずに戸惑うシオ。
…上空に瞬き始めた星が、海面に小さく映っていた。
−To be continued
後書き
今回は、ストーリーを書き出していくだけで精一杯と相成ってしまいました。
次は最終回…というか、ひとまず終わり…なのですが、この苦しみをひきずってしまいそうな感じがしています。
それでも、やっぱりこうやって始めた以上、彼らの面倒は見てやらねば。
ラストまで気を抜こうとは思っていませんので(いや、当然)、どうぞよろしくお願いします。
それでは、次回をお楽しみに。