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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第101回:「透かし絵」から情景模型へ――ジオラマの歴史 2018年8月15日

学芸課長・学芸員 香川 雅信

 

 現在開催中の特別展「ふしぎジオラマミュージアム―兵庫県立歴史博物館×海洋堂フィギュアミュージアム黒壁―」は、滋賀県長浜市にある海洋堂フィギュアミュージアムが製作した「ボックスジオラマ」の傑作の数々を展示するとともに、当館の収蔵資料を通じてジオラマの歴史を紹介するという二部構成の展覧会となっている。

 ジオラマの歴史って?と不思議に思われるかも知れないが、実はもともと「ジオラマ」と名づけられたものは、現在の私たちがその名で呼んでいるもの――ある情景や物語の場面を模型で再現したもの、情景模型――とはまったく違うものであり、それなりの紆余曲折を経て現在の形になったものであることを、この展覧会では紹介している。

 ジオラマ、より正確にはディオラマ(diorama)は、フランス起源の言葉であり(英語読みは「ダイオラマ」)、最初期の写真機「ダゲレオタイプ」の発明者として知られるルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが1822年に考案したアトラクションであった。それは現在の「情景模型」とは似ても似つかぬもので、イメージ的に最も近いのは映画館であろう。高さ14メートル、幅22メートルのキャンバスに描かれた絵を、350人もの人間が収容できる暗いホールの中で鑑賞するのであるが、もちろんそれはただの巨大な絵ではなく、特殊な仕掛けが施されていた。そしてそれこそが「ジオラマ」の本質だった。

 「ジオラマ(diorama)」という語はギリシャ語のdia(〜を通して)とorama(眺め)を組み合わせた造語で、「透かし絵」を意味している。その名のとおり「ジオラマ」には、後ろから光を当てると透過光により絵柄に変化がもたらされる仕掛けがあった。当時のジオラマは現存していないようなのだが、ほぼ同じ仕掛けを用いていると思われる資料が、当館蔵「入江コレクション」の中に含まれている。「入江コレクション」とは、大阪の児童文化史研究家・入江正彦氏(故人)が収集した子ども文化に関する一大コレクションである。入江氏は覗きからくりのようにレンズや鏡など光学的な仕掛けを用いた玩具――「光学玩具」に強い関心を抱いており、それらはコレクションの中にも多く含まれているのだが、その一つに19世紀フランスで製作されたと推定される「ポリオラマ・パノプティーク」という覗き眼鏡がある。専用の絵を入れて上部の蓋を開けると、絵が前方から照らされて表に描かれた絵柄が見える。次に上部の蓋を閉じ、背面の蓋を開けると、後ろからの光で絵が透けてまったく別の絵柄が浮かび上がる。昼の広場の光景が夜の祭りの光景に変わるといったものはまだ序の口で、海港の遠景が突如戦場の風景へと変わったり、海辺の町の風景が暗い劇場の内部に変わったりといった劇的な変化を見せるものもあった。これはダゲールの「ジオラマ」の仕掛けを再現した玩具と見なすことができる。

 

ポリオラマ・パノプティーク
1850年代 フランス製 当館蔵(入江コレクション)

 

 

 

 では、なぜ巨大な「絵」であったジオラマが、情景を再現した模型を意味するようになっていったのか。その萌芽はダゲールがジオラマに加えた改良点のなかに見いだすことができる。1831年に初披露されたジオラマ「シャモニー渓谷から眺めたモンブラン風景」は、格別評判がよく2年間もの長きにわたって公開された。それはジオラマが再現した風景がきわめて真に迫っていたからだが、ダゲールはジオラマにリアリティを持たせるために本物を使用していた。前景にある木こり小屋やモミの木、山羊などは、絵ではなくシャモニーから輸入した本物の木こり小屋やモミの木であり、生きた山羊であった。だが照明などの光学的な効果により実物と絵との境目は巧妙に隠されていた。ジオラマを見た観客は、どこまでが絵で、どこからが自然のものなのか、まったく区別がつかなかったのである。  このように、実際の立体物を用いて絵の前景を構成する手法は、ジオラマの幻惑効果を高めるための演出の一方法であった。だが、やがて主役であったはずの「透かし絵」が単なる背景と化し、それに対していわば小道具にすぎなかった情景模型の方が主となっていく。さらには、情景模型自体が「ジオラマ」と呼ばれるようになっていったのである。

 ちなみに、「透かし絵」としてのジオラマは、明治のかなり早い時期に日本に舶来している。明治4年(1871)に浅草で「万国一覧」の名前で興行されたものがそれで、いまだ西洋の風景画を見たことがなかった当時の人々のあいだで大きな評判を呼び、明治6年(1873)の政変で下野する直前の西郷隆盛がわざわざ見に来たほどであった。このジオラマの興行は、その後「西洋眼鏡」の名で盛んに行われた。

 そして、時代は下って明治22年(1889)、今度はまさに「ヂオラマ館」と称する見世物が、やはり浅草に登場する。これは七尺(約2.1メートル)四方の油彩画の背景の前に実物や人形を配した、のちの情景模型に近いものであった。この頃にはすでに「ジオラマ」から「透かし絵」の意味は失われていたと考えられる。もっとも、明治43年(1910)刊行の『現代娯楽全集』によると、ジオラマとは「絵画をして実物の如く浮上りて見せしむるよう装置したるもの」で、「画に応じ物体(例えば戦争の絵なれば兵士の人形或は砲車等)を配置し、絵と物語と差異なきようすべし」とある。つまり絵画を実物のように錯覚させるアトラクションが「ジオラマ」であり、前景の実物や模型はあくまで錯覚の効果を高めるためのものであるという認識が少なくとも明治末期までは存在したのである。主役はまだ背景の絵の方だったのだ。

 現在のようにジオラマが情景模型の意味で使われるようになっていく上で重要な役割を果たしたのは、実は博物館であった。動物の剥製を情景模型の中に展示する「ジオラマ展示」の手法が1902年にニューヨークのアメリカ自然史博物館で生み出され、世界の博物館展示のモデルとなっていったのである。この展示手法が「ジオラマ」と呼ばれたのは、曲面の背景を有していたことが大きい。これにより、本来は平面のはずの絵が立体的に感じられるようになったばかりか、ケース側面との境目がなくなり、あたかも展示ケースの中に別世界が広がっているかのような一種の幻惑的な効果をもたらしたのである。

 ダゲールが発明したジオラマとはもともと、さまざまな仕掛けによって絵を現実と錯覚させる幻惑的効果を帯びた見世物であった。この幻惑的効果こそがジオラマというものの根幹なのである。少なくともこの展示法を「ジオラマ」と呼んだ人々には、まだその感覚が生き残っていたのだ。しかしやがて「ジオラマ」からは人の目を幻惑するものというニュアンスが失われ、単に風景やある場面を模型によって再現したものを意味するようになっていった。かつては「ジオラマ」そのものであり、主役であった背景の絵すら持たないものが、今その名で呼ばれているのである。

 そのような中で、かつての「ジオラマ」を今に受け継いでいると言えるのが、滋賀県長浜市の海洋堂フィギュアミュージアム黒壁で製作されている「ボックスジオラマ」である。これは30センチから45センチ四方の立方体、あるいは直方体の箱のなかに、海洋堂のフィギュアを用いて作られたジオラマで、通常のものと異なり、視野をあえて制限することで、あたかも箱のなかに別の世界が広がっているように見せる。これはまさに、かつてのジオラマが有していた幻惑効果を生み出すことを意図して作られたものであり、現代の「覗きからくり」と言うべきものであろう。

 この「ボックスジオラマ」は、日本を代表するフィギュアメーカーである海洋堂の創業者、宮脇修氏の発案によるものである。宮脇氏は、昭和63年(1988)にアメリカ自然史博物館を訪れ、大きな衝撃を受けたという。つまり「ボックスジオラマ」には、アメリカ自然史博物館のジオラマ展示が大きな影響を与えているのである。ダゲールが発明した光学的見世物「ジオラマ」の真骨頂は、博物館のジオラマ展示を経由して、海洋堂フィギュアミュージアム黒壁の「ボックスジオラマ」に受け継がれているのである。

 

ボックスジオラマ「冷蔵庫が水族館に?」 海洋堂フィギュアミュージアム黒壁製作 (C)KAIYODO