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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第49回:「坂落とし」を歩く(その6) 2014年4月15日

学芸員 前田 徹

 

 さて、前回〔2014年3月15日「坂落とし」を歩く(その5)〕まで2回に分けて鵯越の古道を歩いてみました。鵯越は平家方が合戦にあたって重要拠点にしていた大輪田泊(兵庫津)を直撃できる道筋であったことがご理解いただけたかと思います。しかし、「坂落とし」を考える上では、この道は比較的なだらかな下り坂で、「坂落とし」というイメージにはあまりそぐわないことが古来難点とされてきていました。

鵯越道(神戸市兵庫区鵯越筋)

 たしかに、「坂落とし」のイメージは須磨の方がよく似合います。ただし、もちろん鵯越説の場合も、たとえば苅藻川の谷へ向かって「坂落とし」をかけた、あるいはひよどり展望公園の尾根上付近から急降下したとみるなど、ここまで歩いてきた古道周辺の断崖を駆け下りたとする理解も示されています。しかし、確実な史料に手がかりとなる情報がない現状では、このあたりは正直なところどのようにでも考えられるというところがあり、確定的な議論をするのは難しいといわざるを得ません。

須磨一の谷(神戸市須磨区一の谷町)

 さて、すでにこのサイトの「絵解き 源平合戦図屏風」でも述べたように、「坂落とし」については信頼できる同時代史料がほとんどありません。もっともまとまった同時代史料は、時の右大臣九条兼実の日記『玉葉』の寿永3年(1183)2月8日条になります。重要な史料なので、全文の読み下し文を掲載しておきましょう。

 

八日、丁卯、天晴れ、未明、人走り来りて云う、式部権少輔範季朝臣(藤原)のもとより申して云う、この夜半ばかり、梶原平三景時のもとより飛脚をまいらせて申して云う、平氏皆悉く伐ち取りおわんぬと云々、その後午の刻ばかりに定能卿(藤原)来り、合戦の子細を語る、一番に九郎(義経)のもとより告げ申す、〈搦手なり、まず丹波の城を落とし、次いで一の谷を落とすと云々、〉次いで加羽冠者(範頼)案内を申す、〈大手、浜地より福原へ寄すと云々、〉辰の刻より巳の刻に至る、なお一時(いっとき)に及ばず、程なく責め落とされおわんぬ、多田行綱山方より寄せ、最前に山手落とさると云々、大略籠城中の者一人も残らず、但しもとより乗船の人々四・五十艘ばかり島辺にありと云々、しかして廻り得べからざるに依って、火を放ち焼け死におわんぬ、疑うらくは内府(平宗盛)らかと云々、伐ち取る所の輩交名いまだ注進せず、よってまいらさずと云々、剣璽・内侍所安否、同じくもっていまだ聞かずと云々、

 

 この史料の前半では、戦場から都にもたらされた報告をもとに、義経勢が丹波を経て一の谷を陥落させたこと、範頼勢が大手攻撃部隊として浜手から福原を攻撃したこと、戦は辰の刻(午前8時ごろ)から巳の刻(午前10時ごろ)までの一時に満たない間に終わったこと、などが書き留められています。

生田森・一の谷合戦広域図

 これに続くのが「坂落とし」と最も密接に関わりそうな情報である「山手」の攻撃についてです。しかし、この点については、「多田行綱山方より寄せ、最前に山手落とさると云々(多田行綱が山方から攻撃し、真っ先に山手が攻め落とされた)」と書かれており、これが問題をさらに複雑にしています。多田行綱とは、摂津国多田荘(兵庫県川西市など)を本拠にしていた源氏の一族です。

生田森の戦い(源平合戦図屏風、当館蔵)

 こうした『玉葉』の簡潔な記述をそのまま受け取れば、『平家物語』に描かれた義経の坂落としの鮮烈なイメージは全く見えてこないばかりか、山手を攻撃したのは別人の多田行綱であったということになります。

坂落(源平合戦図屏風、当館蔵)

 この『玉葉』の記事が史料の性格としてはもっとも信用がおけるものといえます。ただし、この史料はあくまで戦場からの第一報という伝聞情報です。たとえば末尾には、大輪田泊付近で自焼した船があり、平宗盛らもこの中に含まれているのではないか、といった記述がありますが、これは第一報の中での憶測にすぎず、結果としては誤りでした。したがって、この史料もどこまで確実に事実を伝えているのかについてはなお検討の余地があるといわざるを得ません。そして、このほかの確実な史料がきわめて限られていることもあって、現在でも「山手」の位置や、誰が攻撃したのかについては、諸説が並立したまま決着がついていないのです。

 すでにこのサイトの「絵解き 源平合戦図屏風」でも述べたように、主な説としては、(1)義経はまずは三木方面から鵯越の道を進み、六甲山中で一の谷方面へ進路を変えて一の谷から攻撃したとするもの、(2)『玉葉』を重視して、「山手」は鵯越であり、多田行綱が攻撃したとする説、(3)鵯越であるが義経が攻撃したとする説、または、(4)『平家物語』の「一の谷」を重視して、「山手」は一の谷背後の鉢伏山・鉄拐山(はちぶせやま・てっかいさん)であり、攻撃も義経であるとする説、さらに、(5)鵯越からは行綱、一の谷からは義経がそれぞれ別々に攻撃したとする説、などがあります。

5つの説

 このうち、とくに(2)の説の場合、『平家物語』に多田行綱の活躍が全く描かれていない点が問題となります。これについては、この合戦の後に行綱が頼朝によって没落させられた結果、彼の活躍も歴史から忘れ去られてしまったとする理解が示されています。

多田神社(川西市多田院)

 行綱は、平家が壇ノ浦で滅んだすぐ後の元暦2年(1185)6月に、突如頼朝から追放されました。行綱の家は代々摂津国多田荘(川西市)を本拠とする源氏の一門で、保元・平治の乱や平氏政権下でも活発に活動していました。たとえば『平家物語』で行綱が大きく登場するのは「鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀」の話です。清盛打倒を目指す後白河法皇の近臣たちが謀議を廻らし、行綱も当初はこれに参加したのですが、心変わりして謀議を清盛に密告した、といった役回りで描かれています。この話自体は近年事実ではないとの見方が有力ですが、いずれにせよ、行綱が都近くに本拠を置く武士として、京都の政局と密接に関わって活動する勢力であったことは確かです。

 平家を倒した頼朝にとって、都近くでそれなりの勢力をもつ行綱の存在は気にさわるところだったのでしょう。行綱の失脚は、鎌倉の頼朝にとって障害となりかねない勢力として排除されたものとみられています。

 一方、『玉葉』に記された行綱の山手からの攻撃は、合戦直前に義経勢が摂津国の武士たちを招集していたことを示す史料が残されていることを踏まえると、丹波回りで攻撃に向かった義経勢の一部として、行綱勢が「山手」へ向かったという理解が成り立つとされています。そして、義経はこの戦の以後、都で優秀な軍事指揮官として名を馳せることとなりました。こうした義経の名声が基礎となり、また多田行綱自身が没落してしまったことも相まって、実際には義経勢から分派した部隊として行綱が実施した山手からの攻撃が、後世には義経自身の手柄に置き換えられて伝わるようになったのではないか、と考えられているのです。

 この説は川合康氏によるもので、現在最も有力な説といってよいと思います。

生田森・一の谷合戦周辺図

 さて、ここでは諸説いずれが妥当かという結論めいたことを言うのは差し控えます。さしあたり、このサイトの「絵解き 源平合戦図屏風」で述べたことのほぼ繰り返しとなりますが、今のところはこの程度までは言ってもよいのではないかというあたりだけを述べておきたいと思います。

 まず、鵯越は生田森から須磨まで、およそ10kmもの範囲に布陣していた平家方の中央を分断する位置にあたります。そして、鵯越道の終点は大輪田泊です。

 また、先に引用した『玉葉』では、戦いは午前8時ごろから10時ごろまでの2時間ほどで終わったと記されており、案外と短時間で終わったことがうかがえます。仮に須磨の一の谷への攻撃が決め手になったと考えると、生田森までは距離が離れすぎていて、2時間あまりでは決着が付きそうもありません。須磨から大輪田泊まででも6〜7kmほどあり、ただ単に小走りで行くだけでも1時間ほどかかってしまいます。戦をしながらこの距離を進み、生田森の平家方までをも潰走させるには、少々時間が足りないのではないでしょうか。こうした状況からみて、勝敗の決め手となったのはやはり鵯越からの攻撃であったと考えるのが自然とみておきたいと思います。

 ただし、須磨を歩きながら考えたように、一の谷の山も決して攻撃不可能な断崖ではなかったと考えることはできます。ですので、先述の(5)の説、すなわち鵯越とは別に、一の谷でも「坂落とし」があったという理解も成り立つ余地があるとみておきたいと思います。なお、(5)説は元木泰雄氏によるものです。

 さて、最後に現地を歩きながら、この問題とひょっとすると関わるかもしれないなと思ったことを述べておきたいと思います。『平家物語』には、坂落としの舞台となった山肌について、「小石まじりのすなご(砂子)なれば」(新日本古典文学大系本〔高野本〕=覚一本系)という表現があります。現地を歩いてみると、この記述は風化が進んだ六甲山系の土壌をよく表現した描写であることに気づきます。一の谷の鉢伏山も、鵯越の古道も、いずれも周辺の山肌はかなり風化が進んだ花崗岩で、ちょっとさわっただけでボロボロと崩れて砂になっていくところもめずらしくありません。『平家物語』の記述は、誰か実際にこの山を歩いたことのある人からの情報が踏まえられたものである可能性も考えられるのではないでしょうか。

 『平家物語』は、合戦から数十年が経過した13世紀の中ごろ、都の公家社会の中で生まれた物語です。編纂にあたっては、様々な関係者が語り伝えた逸話が参考にされたと考えられています。また一の谷合戦の記述については、義経勢の関係者が伝えた情報が有力な基礎の一つになっていたとみる説もあります。こうした『平家物語』のできあがり方に関する理解をも踏まえると、ここで出てきた六甲山系の山肌の情報は一体誰が伝えたものなのか、やや気になるところです。この点については、もう少し考えをめぐらせてみたいと思っています。

鵯越古道脇の山肌
(神戸市兵庫区里山町)

 さて、長々おつきあいいただきながら、まったく前進のないままの終わりとなりましたが、2010年度制作コンテンツ「絵解き 源平合戦図屏風」では盛り込みきれなかったことがらの補足とさせていただければと思います。みなさまも是非現地を歩きながら、この問題をお考えになってみてはいかがかでしょうか。

 

〔主な参考文献〕
 仲彦三郎『西摂大観』、明輝社、1911年
 下田勉「義経と一の谷への道(1)〜(6)」、『神戸史談』250号〜255号、1982〜84年
 落合重信「一ノ谷合戦―義経の坂落しは、一ノ谷か鵯越麓か―」、『歴史と神戸』25-1号、1986年
 神戸史談会編『源平と神戸』、神戸新聞出版センター、1981年
 川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』(講談社選書メチエ)、講談社、1996年
 野村貴郎『北神戸 歴史の道を歩く』、神戸新聞総合出版センター、2002年
 宮内庁書陵部編『九条家本玉葉』9、明治書院、2003年
 菱沼一憲『源義経の合戦と戦略』(角川選書374)、角川書店、2005年
 近藤好和『源義経』(ミネルヴァ日本評伝選)、ミネルヴァ書房、2005年
 鈴木彰「〈一の谷合戦〉の合戦空間」(『平家物語の展開と中世社会』汲古書院、2006年)
 川合康「生田森・一の谷合戦と地域社会」(歴史資料ネットワーク編『地域社会からみた「源平合戦」』、岩田書院、2007年)
 元木泰雄『源義経』(歴史文化ライブラリー)、吉川弘文館、2007年
 高橋昌明『平清盛 福原京の夢』(講談社選書メチエ)、講談社、2007年
 高橋昌明『平家の群像』(岩波新書)、岩波書店、2009年
 『加西市史』1、加西市、2008年
 『新修神戸市史』歴史編2 古代・中世、元木泰雄氏執筆分、神戸市、2010年