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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第45回:「坂落とし」を歩く(その4) 2013年12月15日

学芸員 前田 徹

 

 しばらく連載をお休みしておりましたが、1年半ぶりに「坂落とし」の続きです。現地を歩きながら、源平生田森・一ノ谷合戦の「坂落とし」について、わかること、わからないことをあらためて考えてみたいと思います。

 さて、前回〔2012年4月15日「坂落とし」を歩く(その3)〕までは、須磨一ノ谷を歩いてみました。今回は鵯越(ひよどりごえ)を歩いてみましょう。

 「鵯越」とは、兵庫津(神戸市兵庫区)から六甲山系を越えて三木方面へと通じる古道の名称です。『平家物語』にも、位置関係は不正確ながら、「一谷の後ろ鵯越」などと名称自体が出てきますので、遅くとも『平家物語』が成立した鎌倉時代には機能していた古道であったことになります。

鵯越古道(神戸市兵庫区里山町)

 現在たどれる鵯越道は、江戸時代の人々が使っていた道筋です。六甲山系への入り口部分は会下山(神戸市兵庫区)の背後になり、登り口は旧西神戸有料道路とほぼ重なっています。そして、旧有料道路の途中で鵯越墓園へと入り、山中を星和台、藍那(神戸市北区)方面へと抜けていく道筋でした。

地図 鵯越の道筋
基図:参謀本部陸地測量部測量仮製1/20,000地形図 兵庫・須磨村
(1886年〔明治19〕ごろ測図)

 今回は、この道筋を藍那から逆にたどってみましょう。神戸電鉄の藍那駅で下車、南にある藍那の集落内の坂道をどんどん登り、さらに集落背後の山上への道を歩いていくと、鵯越の古道にでます。ここから鵯越道を少しだけ三木方面へ進んだ路傍の高台上には、南北朝時代ごろとみられている宝篋印塔が残されています。この宝篋印塔があることによって、遅くとも南北朝時代ごろからはこの道筋が機能していたことがわかります。

藍那の鵯越道脇の宝篋印塔(神戸市北区山田町藍那)

 この宝篋印塔から兵庫津方面を目指して鵯越道を歩いていきましょう。少し東へ進んで谷へ降りると、「相談ヶ辻」と通称されている地点につきます。ここは西から延びてきた谷田が奥までほぼ行き着いた地点で、北東から来る道と一旦合流してから、南西へ行く道と分かれるX字状の分岐点となっています。ここを直進して山へ上がっていくのが鵯越道で、南西へ分かれて行くと白川方面へと出ます。義経勢はここで軍議を開き進路を相談したと伝承されています。鵯越の進軍路をめぐる諸伝承や諸説の中には、ここで須磨一ノ谷方面へ向かう熊谷直実らと、鵯越を進む義経とに分かれた、とするものなどもみられます。

相談ヶ辻(神戸市北区山田町藍那)

 相談ヶ辻からしばらく古道を進むと星和台の住宅地に入り、やがて鵯越墓園の中へと入っていきます。このあたりは完全に舗装道路に直されてしまっていますので、古道の道筋がどこであったのかを厳密に確定することは難しいですが、明治の参謀本部陸地測量部の地図と照合すると、おおまかにこの付近を通っていたことは確実です。

義経駒つなぎの松(神戸市北区山田町下谷上)

 墓園の中には、「義経駒つなぎの松」、「蛙岩」などのゆかりの地点があります。駒つなぎの松は高尾地蔵と呼ばれるお堂の傍らにあり、今は古松の根元を残すだけとなっていますが、進軍中の義経が馬を休めたところと伝えられています。

 また、蛙岩は、鵯越道と白川方面へ向かう山道との分岐点にある大岩で、諸伝承・諸説の中には、義経はここから転進して白川を経て一ノ谷方面へと向かった、とするものなどもみられます。

蛙岩(神戸市北区山田町下谷上)

 墓園の見晴らしがよいところからは、遠くに淡路の島影をも見せながら、一ノ谷の背後にあたる鉄拐山・鉢伏山の山容も遠望できます。

鵯越墓園から一ノ谷方面を遠望

 墓園を降りると神戸電鉄の鵯越駅近くに出ます。進行方向右手、旧有料道路の反対側は苅藻川の深い谷になっています。この谷の奥に「古明泉寺」という字名があり、『平家物語』で山手の守備を務めたとされる平家の有力郎党平盛俊が陣を敷いていたとの伝承があります。

鵯越道から苅藻川の谷を望む

 平盛俊は、『平家物語』では鎌倉方の猪俣小平太範(則)綱に討ち取られたとされていますが、彼の塚と大書した石碑が苅藻川の谷に建てられています。現在は石碑ですが、江戸時代に刊行された『摂津名所図会』巻八(寛政8年・1796)には、塚を示す印として古松が一株あったと記されています。

平盛俊の碑(神戸市長田区名倉町2丁目)

 また、明泉寺は、現在は苅藻川の谷の中ほどにあります。境内には、平家一門の知盛の子息である知章の墓として五輪塔が建てられています。お寺の案内板によれば、もともとはお寺の北方にある池の近くにあったものを、近年境内に移して立て直したものとされています。

 『平家物語』では、知章は父知盛を逃すための楯となって奮戦し、児玉党に討ち取られたと描かれています。

明泉寺の平知章墓(神戸市長田区明泉寺町)

 ただし、知章の墓については、『摂津名所図会』では南の平野部にある東尻池村の西国街道の南側にあると記されています。『摂津名所図会』は、知章の討死の場所は北方の山手であったが、享保年間(18世紀前半)の『摂津志』編纂の際に著者の並河誠所が来訪し、父の身代わりとなった美名を顕彰するために西国街道沿いに石碑を移築した、と説明しています。

 現在、苅藻川の谷の出口にあたる神戸高速高速長田駅・市営地下鉄長田駅のすぐ近く、新湊川のほとりに「源平合戦勇士の碑」と呼ばれる石塔群があり、この中に、平家一門の平通盛、鎌倉方の木村源吾、猪俣則綱のものとともに知章の碑も見られます。この地点はちょうどかつての西国街道の道筋上附近にあたりますので、こちらが『摂津名所図会』が説明する知章の墓の系譜を引くものとなります。ただし、この碑石群は、道路拡幅などのために移設が繰り返されており、現在の位置は江戸時代の位置からみると少し北方にあたるようです。

源平合戦勇士の碑(神戸市長田区五番町8丁目)

 また、源平勇士の碑から神戸村野工業高校を挟んで東へ100メートルほどのところには、知章とともに討ち死にした郎党監物太郎頼方(賢)の名を記した墓石もあります。『摂津名所図会』にも長田村の西国街道沿いに頼方の墓があると記されており、やはり並河誠所が石碑を建てたと記しています。

監物太郎頼方の碑(神戸市長田区五番町8丁目)

 最後は少し脇道に入ってしまいましたが、今回はここまでとしたいと思います。次回は鵯越道を最後まで歩こうと思います。