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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第36回:城郭談義(その8)「形象化空間論(2)―街のランドマーク―」 2013年3月15日

学芸員 堀田 浩之

 

 直行する線路や道の真正面に、山などの目印となる景物を認めた経験はありませんか。ごく普通の風景として全く意識されないことも多いのですが、そのヴィスタ(見通し)の見事な構図が、計画線策定の際の出来過ぎのシナリオを想起させるのです。もしかすると、単なる思い過ごしかもしれませんが、大きな事業設計が進められる時、現場を前に全くのフリーハンドで図面が描けるかとなると、甚だ疑問を覚えます。基準となる線引きに何らかの根拠が求められるとすれば、当然目に入り易いランドマークの景物を見出し、まずは、それを介在させた空間の形象化が図られたと考えるべきではないでしょうか。

 明治36年(1903)、姫路駅と陸軍の練兵場を結ぶ御幸通りが開通しました。5年前には、第10師団の諸施設が姫路城の旧中曲輪一帯に開設され、山陽鉄道の姫路と神戸間の複線工事も完成しています。姫路の街は鉄道駅を玄関口にして、新たな都市整備計画が模索されていたのです。御幸通りはその名が示すように、明治天皇の行幸のために造られた新しいメインストリートであり、以後の姫路の都市軸を象徴する存在でした。

 

 外来の訪問者が鉄道の旅を終えて、姫路の駅頭に立つ。その時「姫路と言えば・・・」と、思わず探したくなる対象の景物は、やはり“お城”でしょう。駅前から視線の導かれるまま御幸通りを北望していくと、緩やかに右へカーブする道路の前方正面に、まさしく姫路城の天守が浮かび上がる光景と遭遇! 明治末年の観光絵葉書の名場面にも姿をとどめる、最も姫路に相応しい空間演出を企図した駅頭での嬉しい仕掛けです。

 現在ではアーケード街となってしまい、すっかり天守の姿を望むことはできませんが、御幸通りの道筋は健在で、相変わらず駅前の近いところでカーブしています。地図で確認してみたところ、実はこのカーブの設定こそが、天守と駅頭を結ぶヴィスタ成立の鍵を握ることが判りました。御幸通りのラインは城南の旧城下町の座標と同じですので、カーブの先でまっすぐ北行する通りの主軸部では、天守とのヴィスタの関係は成立しません。駅前近くの御幸通りを50mほど曲げる操作を施すことにより、唯一、駅頭の場所からのみ、天守を視界に入れることを可能にしているのです。明治期においても、姫路の街中の趣向・演出に城の存在が欠かせなかった、独自の形象化空間づくりへの意識が窺えます。

明治末年の御幸通り(当館蔵:高橋コレクション)
現在の御幸通り(2011年3月)

 

 その後、空襲の罹災に負けず急速な復興を遂げる姫路の街は、昭和30年に大手前通りを竣工し、新たな都市の顔を誕生させます。道路というより、駅と“お城”を結ぶ巨大な広場とでも表現できる対象ですが、“お城”への視界が閉ざされた御幸通りに代わる装置として、拡大規模の明快な都市の構図が再編成されたのです。古写真を見ると、区画整理を施された幅広で縦長のアプローチが、まっすぐ“お城”をとらえており、その中央の舗装された出来立ての道路には、未だ白線標示や信号が無いものの、車と人が仲良く共生しているような、どこか開放的で穏やかな雰囲気が漂ってきます。両側の町並みも建物の高さが低くて、“お城”の背後に連なる増位・広峰の山並みがゆったり望めます。

 8月上旬に開催される“お城まつり”では、姫路城を背景にした大手前通りを舞台に、各種パレードや総踊りが繰り広げられます。平素の車道にあって路上に佇むことを許されない歩行者にとっては、この日の特別な祝祭ステージばかりは、街中で“お城”の存在と距離感を確かめることにできる絶好の機会なのでした。現在、JR線の高架化に伴う姫路駅周辺の改修工事が進行中です。かつての駅ビルが解体され、ちょうど高架ホームの上から、大手前通りと素屋根に覆われた平成の修理工事の“お城”が望めますが、整備事業が完了した後、“お城”と向かい合う新しい姫路駅と、どのような空間表現の形を取り結ぶのか、時代の変わり目に立ち会っている気分で、私としても密かな楽しみとしています。

昭和30年開通の大手前通り(当館蔵 高橋コレクション)
現在の大手前通り(2011年9月)

 ところで、姫路平野の北郊に位置する広峰山については、池田輝政の姫路築城にかかる“山アテ”による空間設計との関係を既に指摘したことがあります(『姫路市史』第14巻別編姫路城:執筆担当「築城プランと基準線」/1988年刊)。天守および城南の城下町の向きが一致することに端を発し、その座標設定の根拠を、播磨の広範囲から信仰を集めていた広峰山(京都の祇園の元社とされる広峰神社が鎮座)の存在に求めたわけです。

 言わば、近世城郭としての姫路新城は、広峰山との関係性を保ちながら空間の整備がなされたわけで、築城以前の当地の視界を代表する広峰山(おそらく遥拝の対象でもあったのではないか)を凌駕する建造物が、その前に立ちはだかるといった政治的なイメージの大転換を、形象の意味の中に込めます。姫路新城への視線の集中は、新しい時代の支配者を象徴するランドマークとなり、今日にその空間の系譜を引き継いでいるのでした。

 

 天守の最上階から城北の方角に目を向けると、恰も地域の小宇宙を介して新旧のシンボル同士が対座しているように、広峰の美しい山並みを真正面に望むことができます。空間の座標の設定はランドマークとして選択した景物と、いかに向き合うかの問題でもあるわけです。なお、姫路城下の北東部に各町家の敷地が雁行に重なって、街路がノコギリ状を呈する有名な一角(八木町・橋之町など)が所在しますが、スナップ写真の風景構図からも窺えるように、やはり広峰山とのヴィスタの関係をそこに指摘できると思います。

 観光アイテムとしても注目を集めるこうした街路形態については、市街戦での迎撃機能の意味合いから軍事的な解釈が試みられ、その言説が今でも一般に流布しているのですが、その有用性が姫路城下の全体に展開しているわけではなく、場所を限った極めて部分的な現象であることに説明の物足りなさを感じます。むしろここでは、広峰山を真正面に望む関係で街路を敷設しようとした、プランナーの強い意思を読み取るべきでしょう。

姫路城の大天守から広峰山を北望
城下:八木町から広峰山のヴィスタ

 まず、広峰山が見える(広峰山に見守られている)という心象風景での信頼の存在感。全てはそこから始まります。そして、信仰の対象でもある神聖なる山容を視界に収めて、新たな街路設定のランドマークとすべき基準の根拠を託しました。すなわち、ヴィスタの恣意による確信的なラインがこうして出現するのですが、その土地の住環境を律する最も自然な座標との間に、避けがたい喰い違いを起こしてしまった場合、先行する生活現場の座標との折り合いをつけながら、ノコギリ状に街路の縁辺を調整することで、空間相互の接合部分を旨く処理したというシナリオが考えられるわけです。足元の特殊な街路形態ばかりに目を奪われていると、広峰山を介した姫路の歴史文化の風土を反映したオリジナルの空間の形象化が、殆ど視界の内に見えてこないかもしれません。御注意を!