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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第31回:「播磨ハ赤松」(『梅松論』より) 2012年10月15日

学芸員 前田 徹

 

 当館の開館プレ30周年記念 特別展「赤松円心・則祐」、10月13日(土)から開催中です。

 今回、ポスター・チラシに「播磨ハ赤松」という文言を入れてみました。一つには、近年まで見られた、播磨地域社会における赤松氏の存在感の大きさを表現しようとしたものですが、同時にこの文言自体にも史料上の典拠がありますので、少しご説明しておきたいと思います。

展覧会チラシ

 南北朝内乱を描いた軍記物としては、『太平記』が有名ですが、もう一つ、『梅松論(ばいしょうろん)』という書物もあります。主に足利方の視点から内乱の前半を描き出した書物です。

 赤松円心は、後醍醐天皇の皇子護良親王(もりよししんのう)の呼びかけに応えて鎌倉幕府倒幕の兵をあげ、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)攻めで奮戦します。しかし、建武政権下では、後醍醐と護良の対立に巻き込まれ、せっかく与えられた播磨の守護職を短期間で召し返されるなど不遇をかこっていました。そのため、足利尊氏が反後醍醐の兵をあげるとこれに呼応、室町幕府が樹立される過程で再び大きな功績をあげたのでした。

赤松円心坐像 南北朝時代 兵庫・宝林寺(上郡町)蔵

 

 『梅松論』では、この過程での円心の活躍がよく描かれています。建武3年(1336)1月、一旦京都に攻め上りながら、ただちに北畠顕家(きたばたけあきいえ)ら宮方勢に追い落とされた尊氏勢は、翌2月、兵庫津(神戸市)周辺で再度宮方に決戦を挑もうとしていました。その時円心が尊氏に二つの進言をします。一つは、軍勢は疲労が著しく、ここは一旦西国へ撤退して再起をはかるべし、とするもの、そしてもう一つは、味方が不利なのは、天皇に対して戦を挑んでいるからであり、尊氏方も別の天皇をかついで、錦の御旗を掲げて戦うべし、とするものでした。そして円心は、尊氏留守中の中国地方・摂津・播磨両国のことはこの円心にお任せあれ、と大見得を切った、と描かれています。

 こうした円心の献策が事実としてあったかどうかは、編纂物である『梅松論』の性格上判断は難しいところです。ただし、円心にこうした軍師のような役回りが与えられていることは、当時の人々から、円心が知略の人としてイメージされていたことを示すと見られています。

赤松円心像 江戸時代中期(18世紀) 当館蔵
(大徳寺玉林院所蔵本の模本)

 

 いずれにせよ、この後尊氏は『梅松論』での円心献策のとおり、九州への撤退、持明院統(じみょういんとう)の擁立を実施していきます。そして撤退途中の播磨室津(むろつ、たつの市御津町)で軍議を開き、留守に残す諸将の配置を決めました。その決定を伝える記述の中に、「播磨ハ赤松」との文言が見えるのです。四国は細川一門、備前(岡山県)には石橋和義と松田一族、などと決めていった中で、播磨については円心に任せる、という意味です。

 円心はこの決定を受けて本拠の佐用荘赤松村(さようのしょうあかまつむら)に白旗城(しらはたじょう)を築いて籠城、やがて都から攻め寄せた新田義貞(にったよしさだ)の軍勢をおよそ50日にわたって足止めします。尊氏はその間に博多の多々良浜(たたらがはま)合戦に勝利して復活をとげ、再び瀬戸内海を東へと攻め上ってきたのでした。そして同年5月25日、湊川の合戦(神戸市)に勝利した尊氏はその後都に入り、この年11月に建武式目(けんむしきもく)を発布して室町幕府を開くことになったのです。

白旗城跡(上郡町)遠景
白旗城跡主郭跡
(現状の城跡は戦国時代の改修部分が多いとされる)

 こうした経過から見ると、円心の白旗城籠城は、尊氏が再起するための貴重な時間を稼いだことになります。この功績によって、円心の播磨守護としての地位が確定したのです。そして、そうした円心の戦いの起点になったのが、室津軍議での「播磨ハ赤松」という決定でした。「播磨ハ赤松」という文言は、その後の播磨の歴史を決めた一言ともいえるでしょう。

 

 展覧会では、もちろん『梅松論』も展示しています。11月11日(日)までは宮内庁書陵部所蔵本、11月13日(火)からは京都大学大学院文学研究科所蔵本を展示します。会期は12月2日(日)まで。期間中2度ほど展示替えがあります。この機会に是非ご観覧くださいませ。