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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第16回:前橋の長壁姫  2011年7月15日

学芸員 香川 雅信

 

 6月22日から3日間にわたり行われる姫路最大のイベント「ゆかた祭り」。これは、本来は姫路城のある姫山の地主神であった長壁(おさかべ)神社の祭りであるが、この神様、江戸時代にはなぜか妖怪として有名であった。妖怪としての長壁は、特に「長壁姫」あるいは「長壁狐」としばしば呼ばれた。つまり、身分の高い女性の姿をした妖怪であり、かつそれは狐が化けたものとされたのである。江戸の俗謡に「姫路におさかべ赤手拭」と歌われ、当時は子どもでも知っていたということだが、実際に長壁姫(狐)が登場する草双紙や読み物もいくつか作られており、いわば江戸時代の人気妖怪キャラクターの一つであったのである。さらに明治以降は、宮本武蔵の長壁狐退治の物語が講談などを通じて知られるようになり、泉鏡花の『天守物語』の題材ともなった。

東錦昼夜競 小刑部姫
  明治19年(1886) 楊洲周延画 個人蔵

 地元では神様なのに、なぜ妖怪に?と思われる向きもあるだろう。しかし日本の神というのはしばしば激しく祟る。その祟りの恐ろしさが強調されれば、妖怪として認識されることもあるのだ。実際に長壁に関しては、怪談めいたエピソードがいくつか伝わってもいる。また、地元では長壁神と狐との関連性は薄いが、江戸では狐の妖怪とされたのは、十二単を着た女性というイメージが、美女に化けて鳥羽上皇をたぶらかそうとした玉藻前(たまものまえ)、すなわち九尾の狐と重なったということがあるだろう。さらに、地元に伝わる「およし狐」の伝承と混同されたとの説もある。こうして妖怪オサカベのイメージは、姫路から遠く離れた江戸の地で形づくられていったのである。

 ところでこの長壁、姫路ばかりではなく群馬県の前橋にも祀られていることは、意外に知られていない。群馬県庁の南西には長壁神社が鎮座しているが、群馬県庁はかつての前橋城であり、長壁神社が鎮座するのはその裏鬼門(未申)の地にあたる。これは、かつて姫路城主であった松平朝矩(とものり)が、寛延2年(1749)に前橋城主・酒井忠恭(ただずみ)と国替になった際に、姫路の長壁神社の分霊を前橋城三の丸に祀ったのを始まりとする。朝矩の父・明矩は長壁神を崇敬すること篤く、京都の吉田家に願い出て正一位の神階を取得したのも明矩であった。朝矩もまた父と同様長壁神を崇敬していたので、分霊を前橋に勧請したのであろう。

 しかし前橋城は利根川による浸食が進んだため明和4年(1767)に廃城となり、朝矩は川越藩主として川越城に移ることになる。これについては、面白い伝説が伝わっている。朝矩の夢枕に長壁姫が現れ、自分も川越城に連れていくよう言ったというのだ。だが朝矩は、城の守護神ともあろう者が、城を守ることもできず城替えの時に一緒に連れていけというのはけしからん、ということでその申し出を断った。そののち、前橋の人々の夢のなかに長壁姫が現れては、川越へ行きたい、川越へ行きたいと言ったという。

 この伝説の長壁姫はどうにも情けないが、明治3年(1870)になり、突如前橋の長壁は再び霊威ある神として顕現する。前橋藩士(慶応3年[1867]に前橋藩は復活している)の冨田政清という人の娘が、夢のなかで牛のような角の生えた獣に長壁大神の宮に参るよう告げられ、それ以後、長壁をはじめさまざまな神々の姿が見えるようになったというのである。娘はもと鎧(がい)という名前だったが、神勅によって春と改め、長壁大神に仕えるようになる。春のもとには、長壁大神から小遣銭と称してどこからともなくお金が送られてきたり、またミカンや柿、餅、酒などが与えられることもあった。このことは近隣の人々のあいだにも知れ渡るようになり、病気の平癒などを求めて相談に来る者も現れるようになる。

 これは冨田政清自身が記した『冨田氏日記』によって知られている出来事であるが、比較的冷静に、客観的に描写されている点が注目される。神々やそのお使いの姿は春にしか見えず、例えば長壁大神の侍女に春がかんざしを買ってもらうという場面があるが、供をしていた女性には、春が自分で代金を支払って買ったようにしか見えなかったと書かれている。つまり、超常的な現象などは何一つ起きておらず(どこからか送られてくるお金が不思議と言えば不思議であるが)、すべては春の幻想であると読むこともできるのである。それだけにリアリティのある記録であるといえよう。

冨田氏日記
  明治10年(1877)写 当館蔵

 ただ、神々の世界が春にしか見えない、というこの書き方には、国学者・平田篤胤の思想の影響もあるようだ。篤胤は「幽冥」「幽世(かくりよ)」という目には見えないがわれわれの世界に重なって存在する世界を想定した。死者の霊や神などは、この「幽冥」の住人なのである。それまで、死者の霊や神は「あの世」と俗に呼ばれる遠く離れた世界の住人であったが、これによって、霊の世界は不可視ではあるがわれわれの住む世界に重なり合って存在し、選ばれた特別な人間だけがそれを見ることができるということになったのである(あるいは近年の「霊感」などという言葉や考え方の背景には、この篤胤の「幽冥」に関する思想が影を落としているのかもしれない)。

 春の母方の祖父である早川路長は平田国学の信奉者であり、『冨田氏日記』には長壁大神が平田篤胤本人(!)を連れて春の前に現れたことも記されている。この記録が、平田国学の大きな影響下に生まれたものであることはまず間違いない。実際に、篤胤の弟子・矢野玄道(はるみち)は春に大きな関心を示し、門人を何人も春のもとへ寄越して、長壁大神に絹糸・筆・絵図などを献上している。篤胤の孫・延胤(のぶたね)も両親宛の書簡のなかで春について触れているが、彼自身は若干懐疑的だったようだ。

 なお『冨田氏日記』には、長壁大神が西国へ「仏仙徒」を打ち払いに行くというエピソードが記されている。これも国学的な思想が反映されたものといえるが、より直截に、当時の廃仏毀釈の風潮を反映したものと考えることができるだろう。明治元年(1868)に神仏分離令が発布されたのち、それまで神仏習合であった神社から仏教色が排除されていったばかりか、仏教の宗教的権威自体が著しくおとしめられ、寺院・什物の破却が進められた。『冨田氏日記』が記されたのは、こうした廃仏毀釈の嵐が吹き荒れるさなかだったのである。

 さて、この当時はまた、天理教・金光教・丸山教など、神道系の新宗教が続々と生まれた時代でもあった。あるいは春もそうした新宗教の教祖になりえたかもしれなかったが、『冨田氏日記』は明治4年の12月30日で終わっており、その後春がどうなったか、まったくわかっていない。なぜ春は「長壁教」の教祖にはなれなかったのか。いずれ解き明かしてみたい疑問である。