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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第1回:赤松の里を歩く 2010年4月23日

学芸員 前田徹

 今回は第1回目として、県域の中世史を代表する存在の一つである播磨守護赤松氏の発祥の地をご紹介したいと思います。

 赤松氏は、初代の円心(則村)が南北朝の内乱の中で大きく活躍し、以後戦国時代まで、県域西部の播磨地域の支配者として君臨しました。そうした赤松氏の名字の地が、現在の上郡町赤松というところです。円心のころは佐用荘内赤松上村・下村と呼ばれていました。上郡と鳥取とを結ぶ智頭急行線に、「河野原円心」という駅があります。名前が示すように、ここが円心ゆかりの赤松の里への入り口になります。

 駅を降りてまっすぐ南へ、宝林寺というお寺があります。境内の「円心館」には、赤松円心、その三男で赤松氏三代目を継いだ則祐、そして円心と親交が深かった禅僧雪村友梅(別法和尚)、則祐の娘覚安尼の四人の木造(県指定文化財)が祀られています。この宝林寺は、もともと則祐が文和元年(1352)ごろから備前国新田荘中山(岡山県和気町大中山)に自らの菩提寺として建立しはじめた寺院で、文和4年(1355)に現在地の少し南側へ移建したものとされています。

宝林寺
伝赤松氏居館跡

 千種川を渡って東へ行くと、そこが赤松の集落です。集落中央の山麓には鎮守社の五社神社があり、その隣の、山を背にした広い空き地が、赤松氏居館跡と伝えられているところです。さらに集落を抜けて東へ進むと、山裾に「白旗城跡」と大書した看板が目に付きます。ここから登山道を小一時間ほど登った山頂付近が、建武3年(1336)円心が新田義貞率いる宮方の大軍を相手に籠城戦を戦った白旗城跡となります。

白旗山

 この登山口付近の山麓には、現在は山林になっていますが、かつては白旗城の鎮守社があり、円心の長男範資とその子孫が相続していました。また、その隣の谷間は栖雲寺という寺院の跡地で、この寺院は円心の次男貞範が建立した寺院でした。

 さらに千種川沿いに南へ下っていきましょう。しばらくすると、川の西側に苔縄という集落が現れます。この集落の背後の山上にある苔縄城跡は、円心が挙兵当初に立て籠もった城跡です。正慶2年(1333)春、世の中に鎌倉幕府を倒そうとの機運が盛り上りつつあったころ、円心は、三男則祐が持ってきた後醍醐天皇の皇子護良親王の檄文(令旨)を受け取り、直ちにこの苔縄城で兵を挙げたのでした。『太平記』で、「円心斜メナラズヨロコウデ」と記される場面です。

法雲寺赤松円心廟所

 城跡の麓には、円心の菩提寺法雲寺があります。境内には、江戸時代に作られたものですが、円心の廟所(お墓)があります。この法雲寺は円心が雪村友梅を開山に招いて建武4年(1337)に建立した寺院で、落慶供養時には播磨中からたくさんの人々が訪れたと、南北朝時代の播磨の歴史書『峰相記』は伝えています。

 さて、こうした赤松の里の寺社を、伝赤松氏居館跡を中心にしてながめてみます。すると、東に長男範資の白旗城鎮守社と次男貞範の栖雲寺、西に則祐の宝林寺、そして南の苔縄に円心の菩提寺法雲寺があって、館は円心一門の寺社の神仏に取り巻かれ、護られるように位置している、そんな風に見えます。

 ところで、円心のころの赤松氏居館は、彼が苔縄城で挙兵し、菩提寺も苔縄にあることから見て、当初は苔縄にあったと考えられます。館が赤松の伝承地に移るのは、早くても建武3年の白旗城籠城戦の後でしょう。また、長男範資が相続した白旗城鎮守社も、白旗城ができた建武3年ごろの開創と見られます。そして、則祐が宝林寺を備前から移建したことによって、赤松の里の三方を取り巻く寺社配置ができあがったことになります。則祐による宝林寺の位置決定にあたっては、すでにあった法雲寺・白旗城鎮守社との位置関係が意識されていたと見てよいでしょう。こうした経緯から見ると、赤松の居館をめぐる寺社の配置は、最終的には赤松則祐によって意識的につくりあげられたものと考えられるのです。

 赤松の地は、室町時代、赤松氏の当主が普段は京都に常住するようになっても、父祖発祥の地として大切にされ続けたようです。当主が播磨に帰ってきたとき、赤松の館へやってきたことを示す史料も残されています。円心の三人の息子とその子孫たちがそれぞれに護持する寺社に囲まれた赤松の居館は、一門の結束を可視的に象徴する場としての役割を担っていたのではないでしょうか。実は、室町時代における現実の歴史の中では、赤松一門の結束は必ずしも堅いとも言えない展開を見せるのですが、あるいはそうなることをも予感しつつ、そうならないようにしたいという則祐の思いが、赤松の里を取り巻く寺社の配置にこめられているように感じられます。

赤松周辺略図