淡路の漁業
淡路の漁業は、『日本山海名産図会』で明石とともに鯛の産地として紹介されている。また1877(明治10)年の『大日本物産図会』では、淡路の漁業が錦絵に描かれている。
江戸時代は魚が商品として出まわるようになったため、大消費地である大坂を控えた瀬戸内海では漁法が大きく変化した。
魚の味は釣り上げたものが最も美味であることは昔から知られているが、大量に水揚げすることができないため、江戸時代からブリ網と呼ばれる一種の底引き網を使用するようになった。集団で操業して大量の魚を収穫するようになり、その様子がいくつかの資料で紹介されている。
魚の味は釣り上げたものが最も美味であることは昔から知られているが、大量に水揚げすることができないため、江戸時代からブリ網と呼ばれる一種の底引き網を使用するようになった。集団で操業して大量の魚を収穫するようになり、その様子がいくつかの資料で紹介されている。
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