高砂百間蔵跡
江戸時代初期に播磨を治めていた池田輝政が、京の伏見にあったものを移して増築したといわれている蔵を指す。輝政は、加古川左岸の尾上が砂堆の発達により機能を喪失していくことへの対策として、高砂港を整備した。加古川の舟運と瀬戸内海航路とを中継する拠点として、堀川を開削し港を造ったと言われている。そこに移された蔵は俗に「百間蔵」と呼ばれ、北にあったものは五十間、南のものは六十間と記録されている。加古川を下る物資はすべて高砂に運び込まれたため、蔵は姫路藩の倉庫としてばかりではなく、諸藩や旗本の年貢米の集積地として、江戸時代を通して繁栄した。その後、本田氏によって計画的な町造りが行われ、方形区画の町割りは現在も残っている。
現在、江戸時代の蔵は見られず、跡地には石碑が立っており、企業の塀に蔵の面影をわずかに残している。
現在、江戸時代の蔵は見られず、跡地には石碑が立っており、企業の塀に蔵の面影をわずかに残している。
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