トップ > 学芸員コラム れきはく講座

学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第126回:城崎真景図巻―特別企画展「絵そらごとの楽しみ」に関連して

 2021年2月10日
学芸員 山口 奈々絵

 

 当館が所蔵する城崎真景図巻は、およそ300年前の城崎(兵庫県豊岡市)周辺のようすをえがいた作品です。

 

百拙元養《城崎真景図巻》(部分)

 

 兵庫県北部を日本海に向かって流れる円山川を水平方向の軸として、その両岸に山々や村、寺社をえがいています。全長約9メートルにおよぶ絵巻形式の画面をたどっていくと、まるで円山川を船で下っているかのような気分を味わうことができます。立野村(豊岡市立野町)から始まり日本海側の後ヶ島に至るまでの景色のなかには、玄武洞や温泉寺をはじめ、わたしたちになじみのある地名が並びます。

 

百拙元養《城崎真景図巻》より温泉寺周辺

 

 えがいたのは百拙元養(1668−1749)。享保3−9年(1718−24)のあいだ、興国寺(兵庫県豊岡市)の住職をつとめた僧侶です。巻末の跋によって、百拙自身が城崎に赴いた経験に基づいて、享保5年(1720)にこの作品をえがいたことがわかります。

 それでは、これは百拙が見た景色をありのままに写したものといえるでしょうか。

 旅程の起点である立野村から終点の後ヶ島まで、実際の道のりは15キロメートルほどです。歩いたとしても4時間あれば移動できてしまうでしょう。しかし画巻を丁寧に眺めていくと、短時間ではとても見尽くすことができない、時刻や天候の違いによって変化する自然の豊かな表情を見ることができます。

 たとえば、画面には多くの船が行き来し、行楽の人々も見られることから、全体として昼間のようすをえがいているようですが、下鶴井を過ぎる辺りには空に月がかかり、この部分だけ夜の情景となっています。

 

百拙元養《城崎真景図巻》より下鶴井周辺

 

 また来日嶽を過ぎる辺りには、雨に煙る対岸のようすがえがかれています。

 

百拙元養《城崎真景図巻》より来日嶽周辺

 

 これらの描写から想起されるのは、「瀟湘八景しょうしょうはっけい」という山水画の主題です。これは中国の洞庭湖周辺の風光明媚な8つの景観のことで、日本の山水画においてよくえがかれました。

 この作品にえがかれる月や雨、そしてそれに加えて舞い降りる雁や帰り来る帆船も、瀟湘八景のモチーフです。城崎真景図巻は、このような伝統的な主題を思わせるイメージが盛り込まれて構成されているのです。

百拙元養《城崎真景図巻》より舞い降りる雁

 

 ここで改めて、この画巻の冒頭を見てみましょう。百拙が筆を揮った「小驪山しょうりざん」の題字があります。「驪山」は漢詩などで知られていた中国の温泉地です。百拙は中国の温泉郷になぞらえて城崎を「小驪山しょうりざん」と呼んだのでしょう。

 

百拙元養《城崎真景図巻》より題字「小驪山」

 

 また巻末には、「桃島に遊ぶ」と題した百拙による漢詩が記されています。詩作の経緯について百拙は、城崎温泉に入浴したあと桃島に登り、たまたま携えていた『鼓山志』を読んで、中国・明時代の銭しんせんしん(王に進)の漢詩で詠われる湧泉寺に行ったような気分になったと述べています。

 これらのことから、城崎真景図巻制作の動機には、当時の人々にとって行くことの叶わぬ中国の景勝地への憧れの気持ちが関わっているようです。瀟湘八景を思わせるモチーフが散りばめられている背景には、このような事情があるのではないでしょうか。この作品にえがかれるのは、ありのままの城崎の姿ではなく、画家の中国憧憬というフィルターを通して見た「中国風の城崎」ということができるでしょう。

 この作品に限らず、絵画には、それがえがかれた時代の価値観や、画家が身につけた絵画様式、注文者の意向などの要素が少なからず影響しています。その意味で絵は多くの場合、「絵そらごと」であるといえます。そしてこの「絵そらごと」への視点こそが、絵をより深く鑑賞するための方法の一つなのではないでしょうか。

 当館では、令和3年3月21日まで特別企画展「絵そらごとの楽しみ 江戸時代の絵画から」を開催しています。今回紹介した城崎真景図巻を含め、当館所蔵・寄託の江戸絵画を一挙にご紹介するまたとない機会でもあります。ご覧いただけましたら幸いです。