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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第112回:鹿の王――播磨の怪物「伊佐々王」をめぐって 2019年7月15日

学芸課長 香川 雅信

 

 貞和4年(1348)頃に成立したとされる播磨国の地誌『峯相記(みねあいき)』には、「伊佐々王(いささおう)」と呼ばれる怪物の話が記されている。

 

又安志奥ニ伊佐々王トテ、高二丈余ナル大鹿、二ノ角ニ七ノ草苅有テ、身ニハ苔生ヒ、眼ハ日ノ光ニ異ナラス、数千ノ鹿ヲ相従、人類ヲ喰食スル間、人ノ歎キ日ヲ追テタヘス、仍勅使ヲ下サレ、国中ノ衛士等ヲ相催テ、終ニオゝヒ殺ト云々、

 

 安志(あんじ:古くは「あなし」)は現在の兵庫県姫路市安富町で、その奥に県指定の名勝となっている「鹿ヶ壺」と呼ばれる甌穴(おうけつ)群がある。そこに棲んでいたという2丈(約6メートル)余りの巨大な鹿の怪物が「伊佐々王」である。数千の鹿を従え、人を食うなどして住民を苦しめていたが、ついに勅命により退治されたという。

 中国山地の周辺には、この「伊佐々王」と同様の鹿の怪物の伝説がいくつか散見される(水上勲「播磨の巨鹿『伊佐々王』の原像を追って―中国山地の『悪鹿』伝承考―」『帝塚山大学人文科学部紀要』第16号、2004年)。丹波・北桑田郡(現・京都府南丹市)には十六本の角のある「八岐頭の巨鹿」、周防・岩国(現・山口県岩国市)には双頭の「二鹿(ふたしか)」、石見(現・島根県)・鹿足(かのあし)郡吉賀(よしか)町には八頭八足の「八畔鹿(やくろじか)」の伝説がある。

 

 実を言えば、鹿の怪物の伝承というのはそれほど多くはない。これら中国山地周辺の伝承は例外的なものだと言えるだろう。だが、時代をさかのぼれば、かつては鹿が「自然」の荒ぶる力を象徴するものとして重要な意味を担っていたことがわかる。

 例えば『日本書紀』景行紀では、日本武尊(やまとたけるのみこと)の前に信濃坂の山の神が白い鹿の姿で現れている。信濃坂を越えようとする者はこの山の神の邪気に当たって病み臥したというから、これは神と言うよりはむしろ妖怪的な性格を持った存在である。同じく『日本書紀』仁徳紀では、備中国川嶋河の「みつち」すなわち水神としての性格を帯びた蛇の怪物が鹿の姿で現れている。蛇が鹿の姿で現れるというのは突飛にも思われるが、それらは「自然」の力の顕現として等価な存在であったようだ。

『播磨国風土記』では、地名の起源を物語る伝承に鹿が登場することが多い。例えば宍禾(しさわ)郡(宍粟郡)の地名の由来には、「伊佐々王」を彷彿とさせる大鹿が登場する。伊和の大神が山、川、谷、尾根などの地形に基づいて国の境界を決めていた時に、舌に矢の刺さった大きな鹿に出会った。そのために「しさわ」(「鹿遇(ししあわ)」の意)と名づけたのだという。やや意味不明のエピソードだが、森浩一はこれを「その地の水田にたいして先住動物であった鹿との間に、葛藤はあったが武器をもった人のほうが優位になり、鹿を服従させたというストーリー」と見て、鹿に出会った伊和大神が矢を放ったところ、それが鹿の舌に刺さったという話が原型だとしている(森浩一『日本の深層文化』筑摩書房、2009年)。

 つまり、鹿は「自然」を象徴する存在として征服され、それによって人間の領域との境界が確定し、さらには人間による支配権の象徴としての「地名」がつけられる。そのようにこの説話は解釈できるのである。岡田精司は、土地の神や大王が「国占め」の際に鹿と出会ったり、あるいは鹿の声を聴いたりすることは、土地の支配権に関わることであったと述べている(岡田精司「古代伝承の鹿―大王祭祀復元の試み―」『古代祭祀の史的研究』塙書房、1992年)。実は中国山地周辺の「悪鹿」に関する伝承も、それぞれの地域で地名の由来を物語るものとなっており(例えば石見の「吉賀(よしか)」の地名は、初め「悪鹿(あしか)」だったのを「善鹿(よしか)」と変えたもの、など)、『風土記』における鹿の象徴的意味合いを考え合わせると、まことに興味深い事実である。

 鹿は稲作にとっての害獣であり、それゆえに「自然」の脅威そのものであったわけだが、鹿の生態にはそのほかにも、「自然」を体現するいくつかの要素が備わっていた。例えば鹿の毛色は季節によって変化する。初夏には栗色で白い斑点のある姿になるが、冬には暗褐色となり、斑点が消える。また雄鹿の角は初夏の頃に柔らかい毛皮に包まれた袋角(ふくろづの)を生じ、生長していくが、冬になるとそれが脱落する。そして冬には雄鹿が雌鹿を求めて鳴く交尾期を迎え、初夏には子鹿が誕生する。このように鹿の生態は初夏に田植えを行い、冬に入る前に収穫を行うという稲の生育のサイクルと一致しており、「自然」の恵みを象徴する存在でもあったと考えられる。こうして鹿は「自然」の象徴として人間と対峙し、言わば人と自然との境界を宣告する存在となったと考えられる。

 ひるがえって『峯相記』の「伊佐々王」の描写を見てみると、「二ノ角ニ七ノ草苅有テ、身ニハ苔生ヒ」という具合に、まさに「自然」を具現化したような姿で書かれていることが注目される。そして、これは「松柏、背上に生ひて、八丘・八谷の間に蔓延(はひわた)れり」という、『日本書紀』における八岐大蛇(やまたのおろち)の描写を彷彿とさせる。「伊佐々王」の七つに分かれた角や、丹波の「八岐頭の巨鹿」、八頭八足の「八畔鹿」など、鹿の怪物と八岐大蛇の間には類似点が多く、これもかつて鹿と蛇が「自然」の荒ぶる力を象徴するものとしてよく似た意味合いを持つものであったことを物語っているように思われる。

 

 もっとも、鹿が「自然」の荒ぶる力を象徴する存在として怪物視・妖怪視されたのはかなり古い時代のことであり、蛇の方はのちのちまでその性質を遺すものの、時代が下るにつれて鹿が妖怪として現れることはほとんどなくなってしまう。それではなぜ、中国山地周辺には鹿の怪物の伝承が残っているのか?それを説明する一つの仮説として、ここでは「たたら製鉄による森林の荒廃」を挙げてみたいと思う。

 たたら製鉄は日本古来の製鉄法で、主に砂鉄を原料に用い、木炭を燃料とした熱で低温還元することで純度の高い鉄を作り出すというものである。鉄の需要が飛躍的に伸びた14、5世紀以降は、中国山地がこのたたら製鉄による製鉄業の中心地となる。それは中国山地が花崗岩類の地域であり、その深層風化により生じる真砂(まさ)が砂鉄を多く含んでいたためだが、燃料たる木炭の供給源となる山林が広がっていたことも大きい。

 だが、たたら製鉄を行うためには大量の木炭が必要で、そのために森林の劣化が進行し、江戸時代には中国山地ははげ山が広がる荒れた土地となっていた。私たちはともすれば江戸時代には現在よりも豊かな森林が広がっていたように思い込みがちであるが、実は日本史上、最も森林が荒廃したのがこの時代であった(太田猛彦『森林飽和』NHK出版、2012年)。それに加えて、たたら製鉄は「鉄穴(かんな)流し」と言って砂鉄を選別するために掘り出した大量の土砂を下流に流出させる。これがさらに山地を荒廃させることになったのである。

 森林が荒廃すれば、そこに生息していた鹿たちがおびただしい数で里に下りてきて、農作物を食害することが頻繁に見られたであろう。「数千ノ鹿ヲ相従」えた「伊佐々王」の姿は、それを象徴するものではなかっただろうか。『峯相記』が成立した14世紀は、ちょうど中国山地が製鉄の中心地となりつつあった時期に当たる。一考してみるに値するのではなかろうか。

宮崎駿は、1997年の映画「もののけ姫」で、たたら製鉄による自然破壊と、「自然」の力の具現化である鹿のような姿の神=「シシ神」の死を描いた。彼が「伊佐々王」の伝説を知っていたかどうかはわからないが、その鋭い洞察力とイマジネーションには今更ながら舌を巻かざるをえない。

 

鹿ヶ壺(姫路市安富町)
水流の浸食により形成された甌穴は、寝そべった鹿の姿に見立てられている。
矢で射られ苦痛にのたうち回る「伊佐々王」がつけた跡だとも伝えられている。