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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第111回:姫路煉瓦(れんが)めぐり2 飾磨津の煉瓦倉庫 2019年6月15日

事業企画課長 鈴木 敬二

 

写真1
桜の頃の飾磨津の煉瓦倉庫と煉瓦壁

 

 上の写真の煉瓦倉庫は、姫路市飾磨区宮の海岸近くに建っています。この場所は、生野鉱山寮馬車道〔通称銀の馬車道:生野鉱山の近代化に伴い明治9年(1876)に整備〕の飾磨津側の発着点あたり、生野鉱山関連の物資の積み卸しを行った「物揚場(ものあげば)」と伝えられています。

 姫路の町中、JR姫路駅の南西側あたり、「南畝(のうねん)」交差点から、古い民家が今なお残る飾磨街道に沿って、銀の馬車道は南下していきます。亀山本徳寺の門前を通過し、山陽電鉄の踏切や国道250号線を横切り、そして馬車道がまさに海岸にたどり着いたところに、この煉瓦造りの倉庫と壁が現れます。

 兵庫県教育委員会が実施した調査の報告書〔注1〕によれば、この煉瓦倉庫は同地にある化学会社の倉庫であり、やはり明治9年(1876)に建てられたことが記されています。高さ4m、長さ23.3mのこぢんまりとした倉庫ですが、明治期の代表的な建築資材である煉瓦で築かれていること、竣工が銀の馬車道と同じ明治9年(1876)であること、また、この化学会社の創設者は、鉱山がある生野の町の発展に尽くした人物でもあることから、この煉瓦倉庫や壁と、生野鉱山および銀の馬車道との深いつながりがうかがえます。

 

写真2
小窓の上側が、規格品ではない台形の煉瓦で積まれている。

 

 ところで、5月23日付けの神戸新聞の報道〔注2〕によると、この煉瓦壁に接する市道の拡幅に伴い、煉瓦壁は近く撤去されることになるそうです。市道の幅が基準を満たしておらず、市道を広げるためには倉庫とともに壁を撤去せざるを得ないようです。

 道路交通の安全な通行のために、法規や基準に従って街路整備を行っていく必要は、充分に理解できます。しかしそもそも一般論として、歴史的建造物は現行の法規ができる前から存在しているものであるため、それらを活かした建物や街路の修復や整備などをしようとすると、後からできた法律や基準などとの矛盾が生じ、困難に直面することはよくある事と思われます。

 しかもこの飾磨津物揚場は、平成29年(2017)に日本遺産「播但貫く 銀の馬車道 鉱石の道」の構成文化財になったばかりでもあり、煉瓦倉庫の解体は余計に残念に思われてなりません。

 壁の一部をモニュメントとして切り取り、隣接地に移設する計画があることから、飾磨津物揚場の煉瓦倉庫の記憶は、次世代までは伝えられることでしょう。しかしこの煉瓦倉庫が銀の馬車道に関する施設として、馬車道の起点に相当する場所に存在したという地理的な価値が、永久に失われてしまうことがとても残念に思われます。

 銀の馬車道沿いの歴史的建造物については、旧辻川郵便局(福崎町/国の登録有形文化財)についても、移築再生のために解体されています。移築により郵便局舎の修復が実現し、活用と両立した保存が行われることは素晴らしいことと思われます。しかし隣接する大庄屋三木家住宅や、馬車道との関わりは、永久に失われてしまうのではないかと危惧されます。もちろん、この点についても地元で充分に議論がなされたこととは思います。

 

写真3
旧辻川郵便局

 

 今回の報道に触れ、文化財の保存、特に建造物など原位置での保存が、いかに難しいものであるかを、改めて感じさせられました。また、せっかく日本遺産となった銀の馬車道沿いの文化財や景観がこれ以上失われることがないようにと、祈るような気持ちでこの文章を記した次第です。

〔注〕

1 兵庫県教育委員会編『兵庫県の近代化遺産−兵庫県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書−』平成18年3月

2 令和元年5月23日付 神戸新聞