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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第109回:城郭談義(その26)「三部構成であること/城郭の空間表現と運用」 2019年4月15日

館長補佐 堀田 浩之

 

 城郭には三部構成での空間表現をとるものが見受けられます。たとえば通常、城郭内の小区画である曲輪は、そこを通過する動線との対応関係から、入口と出口の二つの開口部を用意すれば事足りるのですが、最終の到達空間である本丸の場合は少し事情が異なります。尼崎城や赤穂城のように出入口が三つある事例が存在するのです。

城郭の深奥部を体現する本丸を、外部から遮断された究極の上位空間とするならば、むしろ、そこへの通路は一つに限った方が防備上からも有利なように思えるのですが、城郭の空間運用において三部構成を必然とする設定理由が、そこには込められているのでしょう。

 

 今日私たちの家では正面の玄関のほかに、台所近くに勝手口をもう一つ開くことがあり、日常の生活動線に配慮した施設対応をとります。おそらく城郭の場合も、居住施設(御殿)での活動に基づく正(表)と副(裏)の二系統の空間仕様が求められていたのでしょうが、問題は第三の出入口についての評価です。

名古屋城本丸でも出入口が三つあり、南と東側に角馬出を前方に備えた正規の関門を開けていながら、天守下から内々に北方へ連絡する非常時対応の「不明門」を、殊更に用意していました。門の名称からも葬儀などの、臨時の運用を視野に入れた特別な施設ではないかとの察しがつきます。どうやら城郭には、日常での通常機能を担う正副二つの関門に加えて、特別な場面にのみ使用を託された第三の門を併存させる傾向があったのでした。

 

赤穂城/大手門付近
(脇坂家が出動した所)

 

 因みに、赤穂城は本丸だけでなく、三ノ丸もまた出入口を三つ備えていました。大手門・塩屋門・清水門がそれに当たります。

浅野長矩の刃傷事件で改易となった赤穂藩へは城の受け取りを行うため、近隣大名の二家(竜野:脇坂/備中足守:木下)が派遣されたのですが、藩領の石高に応じて大手門を脇坂家、搦手となる塩屋門を木下家が担当し、それぞれ武装・対峙する中、城内の備品確認や必要書類の引継ぎなど、一連の事務的な手続きが進められていきます。

そして、全ての受け渡し作業を終えた大石内蔵助らの浅野家臣は、第三の門である清水門から静かに退城していったのです。

 受け取る側の出動に際して、大手・搦手の二方面に軍事行為を限定・対応すべく、そのために正・副の二家が選ばれるという、極めて儀礼的な軍事オプションの内容については、近世社会でのみ通用する特殊な城郭観念を裏付けるものとして、すこぶる示唆に富みます。事情の分かったもの同士での、阿吽の呼吸の演技がそこに求められますが、演出の効いた政治劇を円滑に進めていくためにも、赤穂城の清水門が担った第三の門の果たす役割は、どうしても不可欠な舞台装置であったと言えるでしょう。

 

姫路城/喜斎門付近
(門前から天守を西望)

 

 ところで、姫路城の内堀を渡る出入口は三つ。

池田家時代の図面(中曲輪以内の侍屋敷)に北勢隠門が記載されていないこともあり、南側の大手正面に桜門、副次的な搦手方面に当たる東辺に絵図ノ門と喜斎門の三つを数えることができます。その中で遺構が今も残る喜斎門の由来については、これまで人名であろうかと漠然とイメージしていたのですが、近年になって一つの仮説に思い当たりました。元和5年(1619)の山ノ井村年貢算用状に、免税対象地として「鷹匠屋敷」「小姓やしき」といった役宅のほか、「喜斎屋敷」がそこに名を連ねているのです。

 姫路城の北西に位置する山ノ井村(今の山野井町)は、船場川を挟んで城山や中曲輪に近接する男山の南麓に所在し、まさに姫路城の背後に備えた城下の枢要地にあたります。かくして池田輝政の死没後は、当地に菩提寺(龍峯寺のち国清寺)が置かれました。

以後、男山近辺で頻繁に仏事が行われたとすると、にわかに「喜斎屋敷」との関連性が浮かび上がってくるのです。すなわち、同音の「忌斎(きさい)」を営む屋敷を、別の漢字を使って表記したものと推測され、そうなりますと先程の姫路城の「喜斎門」は、非日常の仏事に関連する第三の門としての運用が性格付けられていたように思われます。「喜斎門」が枡形ではなく比較的に単純な平虎口の形態をとることにも、それなりの由緒の事由が表現されたものなのでしょう。

 

姫路城/大天守から城内を見下ろす
(右上は男山麓)

 

 あらためて考えてみれば不思議なことですが、城郭の曲輪は「本丸/ニノ丸/三ノ丸」の三部構成をとり、「四ノ丸」以下を数詞で認識・表記されることはありませんでした。城郭の事例に限らず世の中の原理原則は、三部構成で説明することが可能なのかもしれません。当事者としての自他の二項編成に加え、更にそれらとの関連性に広がりをもたせる第三者の立場が、既に用意されていたのです。

 城郭の場合、中核となる「本丸」を「二ノ丸」がサポート(例えば、門前空間/城主もしくは重臣の屋敷地など)する形で運用がなされ、その外側に「三ノ丸」が各城での多様性を以て展開する、といった縄張の一般的な傾向が窺えます。

ただし、数詞による序列編成が示されているものの、城郭の平面プラン(とりわけ個々の曲輪)の配列と厳格な対応関係が採られているとは言えません。あくまで三部構成は概念上のことなのであって、姫路城でも視角レベルによって、以下のような空間のバリエーションを見て取れます。

 

〔A姫山部分の編成〕本:天守曲輪・北の腰曲輪/二:備前丸/三:上山里曲輪

〔B内曲輪の編成@〕本:天守曲輪・北の腰曲輪・備前丸/二:菱ノ門以内(ただし西ノ丸を除く)

          三:菱ノ門の外

〔C内曲輪の編成A〕本:姫山部分/二:鷺山部分(西ノ丸)/三:菱ノ門の外

〔D内曲輪の編成B〕本:菱ノ門以内(山城部)/二:御居城/三:向屋敷の一帯

〔E中曲輪内の編成〕本:内曲輪/二:内堀外縁の城主屋敷・藩機関/三:中曲輪

〔F外曲輪内の編成〕本:内曲輪/二:中曲輪/三:外曲輪

 

 一応、〔B〕で示されたものが、今日の姫路城の解説用によく用いられていますが、対象エリアの広狭によって、空間概念の捉え方に大きな差が生じることが分かります。酒井家時代の姫路城では、菱ノ門を境に内曲輪を山城部と居城部に分ける〔D〕の城郭観が出現しており、城郭の運用を踏まえた現状認識を反映して、空間編成の感覚も変容していたことが分かります。

もともと私個人の疑問として、姫路城の「二ノ丸」に該当する範囲が明確でないことが、この問題の端緒にありました。姫路城の実際の(三つに収まらない)縄張に、城郭管理に則った概念上の三部構成を、強いて適応させたところに様々な齟齬が出てくる要因を求めたいと思います。赤穂城のように、主郭部が三つの曲輪で完結する教科書的な平面プランの方こそが、城郭史の中では新しい存在だと言えるでしょう。

 たとえ城郭に曲輪が四つ以上あったとしても、「四ノ丸」はありません。三部構成であることを大前提とした城郭の空間表現もまた、それなりの意味をもっていたからです。