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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第105回:『少女の友』ふろくに見られる戦争の影響について 2018年12月15日

主査・学芸員 山田 加奈子

 

 2018年の1月から3月にかけて、当館では子ども雑誌のふろくの展覧会を開きました。明治から平成までのふろくを展示したのですが、昭和の頃のふろくを最も多く出品しました。

 昭和期には、雑誌ふろくが盛り上がった時期が3度あります。昭和10年代前半と昭和30年代前後と昭和50年代前後です。

 なかでも、昭和のはじめ頃は子ども向けの雑誌ふろくが最も大きく変わった時期でもありました。正月号くらいにしかふろくが付かなかったのが、月刊子ども誌に毎号付くようになったのです。この時期に確立したふろくのあり方は、現在まで大きく変わらずに続いています。

 この時期に作られた、紙という制限された材料を使いながらも工夫を施されたふろくは子ども達の心をわしづかみしました。男の子向けであれば、組み立てると何十pにもなる、戦艦や飛行機などの巨大なペーパークラフトが付いたり、女の子向けであれば、人気の挿絵画家が装幀した芸術的な詩集が付いたりしました。

 

 さて、男の子向けふろくで新機軸を打ち出したのは講談社の『少年倶楽部』であり、女の子向けのふろくで新しい流れを作り出したのは、実業之日本社が発行していた『少女の友』でした。

 『少女の友』は明治41年(1908)に創刊し昭和30年(1955)まで続いた少女雑誌で、昭和初期の頃は、ライバル誌の『少女倶楽部』に発行部数では及ばなかったものの、洗練された誌面で都市部の少女達に人気がありました。

 特に人気があったのは、中原淳一と松本かつぢという2人の挿絵画家です。この2人は本誌の口絵や挿絵だけでなく、ふろくでも活躍しました。

 2人の繊細な装幀が施された童話集や詩集などの読み物だけでなく、淳一のファッションガイドブックやかつぢのユーモア溢れる別冊まんがなど、画家のセンスが充分に生かされたふろくも作られました。

 

 このように、『少女の友』では、華やかなふろくがさまざま作られたのですが、当館の入江コレクションの中に、異質なふろくがあります。昭和12年(1937)9月号に付いた『支那の本』です。万里の長城と中華民国の五色旗を表紙に描き、冒頭に陸軍省新聞班長である大佐が、昭和12年7月に起こった盧溝橋事件の経緯を読者である少女達に説明する一文が置かれている冊子です。

 

『支那の本』(『少女の友』昭和12年9月号ふろく)
兵庫県立歴史博物館蔵(入江コレクション) 以下同資料

 

 昭和6年(1931)には満州事変が起こっており、この時期の子ども雑誌、特に男の子向けの雑誌には軍国主義的な内容が盛り込まれていた時期でした。軍部や政府による言論統制が本格化するのは、「国家総動員法」が公布された昭和13年(1938)以降ですが、『支那の本』からは、昭和12年の段階ですでに軍や政府の圧力が強かったことが分かります。日中戦争の契機となった盧溝橋事件について、陸軍の立場からの記事の掲載を迫られ、『少女の友』は『支那の本』を作らざるを得なかったのでしょう。『支那の本』には予定していた童話の本を変更したことについてのお詫びの紙が挟まれています。

 

 

 この時期から、戦争の陰が強まり、段々と子ども雑誌を覆っていくようになります。『少女の友』は、それでも軍部や政府の統制を巧みにすり抜け、芸術作品の紹介など教養的内容で誌面を充実していくのですが、太平洋戦争が勃発した昭和16年末以降は戦争の波に呑まれてしまいます。『支那の本』は、大きな流れに逆らえきれなかった『少女の友』のその後を予見させるふろくと言えるでしょう。