トップ > 学芸員コラム れきはく講座

学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第100回:神積寺の板碑と播磨国田原荘 ―荘園を歩く(その2)― 2018年7月15日

主査・学芸員 前田 徹

 

 姫路から北へ20kmほど、市川の中流域に神崎郡福崎(ふくさき)町があります。民俗学の父柳田国男の出身地としてよく知られてきたとともに、最近はカッパで随分と有名になりました。

 

柳田国男生家 (2018年5月24日撮影)
カッパ (2018年5月24日撮影)

 

 さて、この福崎町には、平安時代創建の古刹である妙徳山神積寺(みょうとくさんじんしゃくじ)があります。姫路市の書写山円教寺や加西市の法華山一乗寺など、姫路周辺に所在する六つの有力な天台宗寺院のことを、中世以来播磨の「六ヶ寺」と呼び習わしていますが、神積寺もこの「六ヶ寺」の一つとしての寺格を誇っています。

 

 この神積寺の境内、本堂下の参道脇には、鎌倉時代後期にあたる弘安9年(1286)の銘文が刻まれた石造の板碑(いたび)があり、兵庫県指定文化財となっています。

 

兵庫県指定文化財 阿弥陀種子板碑 弘安九年銘 (2018年5月22日撮影)

 

 板碑の中央には阿弥陀如来を示す種子(しゅじ=梵字で記した仏の名)が刻まれ、その下部には次のような銘文が刻まれています(/は改行位置を示す)。

  安喜門院/禅定聖霊/登霞□□(以来ヵ)/当百日□(忌)/□□造営/建立此□(覩)

  /願此功徳/増進仏道/乃至法界/平等利益/弘安九年/五三五烏

 

銘文 (2018年5月22日撮影)

 

銘文(当館所蔵のレプリカ) (2018年5月25日撮影)

 

 この銘文は、この板碑が弘安9年5月15日の安喜門院(あんきもんいん)という人物の百日忌を期して、追善供養のために造立されたことを示しています。中央の阿弥陀如来を示す種子は、極楽往生への願いを示しており、銘文の文意とよく一致するといえます。

 

 さて、この板碑で供養されている安喜門院とは、後堀河天皇の皇后だった人物です。父は太政大臣まで昇進した上級公家の三条公房(きんふさ)という人物で、本名は有子、没した弘安9年には79歳であったと伝えられています。

 では、こうした高貴な女性を供養する板碑がなぜ播磨の神積寺にあるのでしょうか。このことには、神積寺が所在していた田原荘(たわらのしょう)という荘園の伝領が深く関わっています。

 

播磨国田原荘故地と主な寺社(基図:国土地理院発行25,000分の1地形図「北条」、2002年)

 

 田原荘の領域は現在の福崎町の市川東岸部分のうちの大部分となり、冒頭で述べた柳田国男の生家やカッパも田原荘の故地内に所在することになります。

 

 この田原荘については、摂関家の一つ九条家(くじょうけ)が伝えた古文書の中に関連史料が多数あり、中世には九条家の所領となっていたことがわかります。ただし、現存する関係史料で、田原荘が九条家領であったことを明示するものは、正応2年(1289)12月28日の後深草上皇院宣案(九条家文書545(2)〔『福崎町史』3、中世史料98〕)が初見となります。

 

それ以前の田原荘の伝領についてはいくつかの説がありますが、結論的にいうとつぎのような理解が正しいと考えられます。

 

 まず、田原荘は、鳥羽院政期の保延7年(1141)に同院領として立荘されますが、このとき母体となる所領を鳥羽院に寄進した源師行(もろゆき)という中級公家が、荘務の実務を取り仕切る預所職に任命されます。

 これ以後、田原荘の最高領有権(「本家(ほんけ)」といいます)については、鎌倉時代をとおして天皇家内の人物が保持していたことがわかっています。ここで問題となるのは、そのもとで荘務の実務を取り仕切った預所職(あずかりどころしき)の伝領経緯です。なお、預所職は、のちに高位の人物が就くようになると「領家職(りょうけしき)」と呼ばれるようになっていきます。

 

 田原荘の預所職は、初代の源師行が承安2年(1172)に没した後、子息時房(ときふさ)の妻に伝領されました。その後、若干不明確になりますが、源師行が田原荘と同時期に立荘に関わった丹波国多紀荘(たきのしょう)の事例を参考にすると、時房の妻から間に一人程度別の人物の手を経て三条公房に伝えられたものと推測できます。

 そして、この三条公房の家から九条家へと預所職(このころには領家職と呼ばれるようになっています)が譲られたものとみられています。ただし、三条家から九条家へは田原荘のほかにもいくつかの所領が譲られていますが、これらは公房本人からのほかに、その三人の娘である安喜門院、西禅尼、九条忠家の妻からも所領が譲られていたことが明らかにされています。田原荘の場合、先述のように九条家領化していることが明確になる史料は正応2年以降のものです。公房は建長元年(1249)に没しており、やや間が空きます。このため公房から、一旦娘のいずれかが伝領していたと想定することができます。

 そして、この三人の娘のうち誰に譲られていたのかを示すのが神積寺の板碑ということになります。田原荘の現地に安喜門院の板碑が建てられていることは、安喜門院が田原荘の支配と関わっていたと考えるのが素直です。したがって、田原荘の領家職は三条公房のあと、一旦娘の安喜門院に譲られ、さらに彼女から九条家に領家職が譲られていったと判断できるのです。

 また、源時房の妻から三条公房への田原荘領家職の伝領についても、この板碑がなければ傍証をもとにした推測に止まってしまうのですが、この板碑によって公房の娘安喜門院が伝領していたことが判明することで、ほぼ確実と判断できることになります。

 

田原荘故地風景(辻川山より) (2018年5月24日撮影)

 

 つぎに、安喜門院と九条家との関係をもう少し詳しくみてみましょう(関係系図参照)。安喜門院は、彼女の妹が、九条忠家(ただいえ)の妻で忠教(ただのり)の母でした。つまり、九条忠教は、安喜門院の甥にあたることになるのです。そして、神積寺の板碑が造立された弘安9年(1286)には、この忠教が九条家の当主となっていました。

 

三条家と九条家の関係系図

 

 また、鎌倉末期の著名な随筆、吉田兼好の『徒然草』第107段には、次のような記述があります。

  すべてをのこ(男)をば、女に笑はれぬやうにおほしたつべしとぞ、浄土寺前関白殿

  (師教)は、幼くて、安喜門院のよく教へ参らせさせ給ひける故に、御詞などのよき

  ぞ、と人の仰せられけるとかや、

 

 ここでは、忠教の子息である師教(もろのり)についてのエピソードが語られています。師教は、幼いころに安喜門院の薫陶を受けたので、言葉遣いが洗練され、女性の受けが良かったと記されています。師教は、文永10年(1273)の生まれで、安喜門院が没した弘安9年には13歳前後となります。この逸話は、師教の幼少時、すなわち安喜門院晩年で、忠教が九条家当主であった時期に、安喜門院と九条家とがかなり親しい関係にあったことを示しているといえます。

 

 以上みてきたように、忠教のころの九条家と安喜門院とは、伯母・甥の間柄で、かつ仲のよい親族関係にあったことがわかります。田原荘の領家職は、こうした親密な親族関係をもとに、伯母の安喜門院から甥の九条忠教に譲られたと理解できるのです。

 

神積寺本堂 (2018年5月22日撮影)

 

 また、九条家領となった後の田原荘の状況を示す、正応4年(1291)田原荘実検目録(九条家文書434〔『福崎町史』3、中世史料97〕)では、妙徳寺(=神積寺)の免田の中に、「弘安新免」として一反が計上されています。この免田は、ここまで述べてきた安喜門院と九条家との親密な関係を合わせて考えると、弘安9年の板碑造立にあたって、供養料などとして九条家から神積寺に新たに施入されたものと理解できます。

 

 このように、板碑の供養料として新規に免田が施入されていると理解すると、板碑そのものについても、新たに領家となった九条家の指示によって造立されたものとみるのが自然ではないでしょうか。神積寺の板碑は、安喜門院から田原荘の領家職を相続したばかりの九条忠教が、嫡男師教の面倒もよくみてくれていた彼女の供養のために、荘内の有力寺院に造立したものであったと考えられるのです。

 

 以上、今回は福崎町の神積寺に残されている板碑をとおして、鎌倉時代における田原荘という荘園の伝領について述べてきました。神積寺の板碑は、関連史料と合わせて考えると、田原荘という荘園の伝領過程を確定させる史料ともなることがわかります。すでに早くから兵庫県指定文化財となっていますが、今後とも地域に伝わる貴重な文化財として、大切に伝えていきたいものです。

 

 

【主な参考文献】

大沢政雄『石造遺物の神崎郡誌』上(神戸新聞総合出版センター、1993年)。

鎌谷木三次「播磨国安喜門院(後堀河天皇皇后、藤原有子)追善供養塔婆(板碑)」(『播磨古文化財の実証的研究』、喜寿記念頒布自費出版、1981年)。

中野栄夫「九条家領播磨国田原荘・蔭山荘の成立」(『荘園の歴史地理的世界』、同成社、2006年)。

西谷正浩「公家領荘園の変容―九条家領荘園の個別的検討を中心に―」(『日本中世の所有構造』、塙書房、2006年)。

福崎町の文化財三『石造遺品』(福崎町教育委員会、1993年)。

前田徹「鎌倉後期の播磨国田原荘―正応四年実検目録を中心に―」(兵庫県立歴史博物館紀要『塵界』18、2007年)。