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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第99回:城郭談義(その25)「五色塚古墳と明石城A/海峡ブルース」 2018年6月15日

館長補佐 堀田 浩之

 

 明石海峡は、畿内(摂津)と山陽道(播磨)および南海道(淡路)を分ける境界の地でありました。六甲山から西に延びる台地が海岸際へと迫り、海峡の見える高台には社寺や城地が、その崖下には町場が細長く展開します。近世の明石築城にあたっては、本丸予定地に所在する人丸塚から、参詣先を東方の高台へと移して柿本神社となります。その後、万葉歌人の柿本人麻呂の由緒とともに、明石らしさの名所の風情を醸成していくのです。

 

 「 ほのぼのと 明石の浦の朝霧に 島隠れ行く 船をしぞ思ふ 」これは人麻呂の作として、あまりにも有名な和歌と言えます。

 

 今から1300年前の明石海峡での映像が、目に浮かんでくるような気がいたします。船の行きかう海上路の要衝にあって、船が淡路島の背後へと隠れてしまう、人麻呂はそんな情景を実際に目にしたのかもしれません。しかしながら、ここで少し違った解釈を加えてみたいと思います。例えば、人麻呂の和歌に、

 「 東(ひんがし)の 野に かぎろいの 立つ見えて 返り見すれば 月傾きぬ 」

という雄大な自然現象を描写した一首がありますが、これを現実の光景として捉えるのではなく、新旧の世代交代を暗喩した挽歌と見立てることも可能だと言います。とすれば、先程の明石海峡での和歌も同様に、挽歌としての性格を含んでいるものと言えなくもありません。新当主の登場を意味する“夜明け”を「あかし」の地名の音で印象付けながら、連想される船の情景を用いて、失われていく先代の面影を惜しんでいるのでした。

 

柿本神社前から明石海峡を遠望

 

 「 春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣乾したり 天の香具山 」

 これは、『万葉集』に収められた持統天皇の和歌ですが、初夏の風物を素直にスケッチした作とされ、表現上の特別な趣向は感じません。ただし、あまりにも平易な歌意であるがゆえに、一方では持統天皇の機知に富んだ比喩歌ではないか、とする新基軸の解釈もまたそこに寄せられています。すなわち、天の香具山が雪化粧した或る冬の日。その白さの装いを初夏の衣乾しの場面に例えたのではないか・・・、という卓見です。“夏から冬へ!” 和歌の成立事情を踏まえた推察により、和歌の文意が劇的に変化しました。宮中の宴席でのことであるとすれば、おそらく、持統天皇の表象した冬景色の和歌で一堂が拍手喝采し、一気にその場の雰囲気も和んだのではないでしょうか。

 さて、明石の「 ほのぼのと・・・」の和歌に話を戻します。ここで、どうしても紹介したいエピソードがあるのです。

 かつて、名古屋に百歳の双子の姉妹(きんさん・ぎんさん)がおられ、テレビ出演を重ねてお茶の間で親しまれていました。どちらの方か忘れましたが、インタビュー取材の話の中で、明石の「ほのぼのと・・・」の和歌が登場してきたのには驚きました。朝の目覚めの習慣として、この和歌が活用されているのです。彼女が言うには、時計は必要ないとのこと。前夜の就寝の時に「 ほのぼのと 明石の浦の朝霧に 」と、和歌の上の句を唱えます。そして、翌朝の目覚めの際に「 島隠れ行く 船をしぞ思ふ 」と、下の句を唱えて一連の作業は終わるのだそうです。なかなか風雅な習俗が、20世紀の生活文化の中に残っていたのですね。“ほのぼのと夜が明ける”上下の句の言霊を介して、双方の強い連関から願いを完結する和歌の力に、明石海峡の情景を想いつつ魅せられてしまいます。

 

明石城/本丸南西隅の坤櫓(重要文化財)

 実は今、明石城が築城四百年を迎えています。元和3年(1617)に当地を領することになった小笠原忠政(のち忠真)が、翌年から新規築城を開始しているのです。そして四百年を経たこの機会に、明石城跡の21世紀に向けた整備事業も進められます。

 ほぼ1町(100m余)四方の規模をもつ本丸から、南方の市街地を眺めてみると、背伸びをしてもビル群で視界を閉ざされ、海峡だけでなく淡路島も見えにくくなっていました。明石城の場合、本丸の4倍規模で中堀内のエリアが画されますので、平面プランの上では、中心を共有する大小二つの正方形の重なりが縄張の骨格をなしており、地上からは体感できませんが、あたかも方眼紙に直線と直角で線引きしたかのような、意図的な作為の図形が浮かび上がります。特定の造形理論に基づく人工の平面プラン実現を強く意識した点で、明石海峡に臨む近傍の五色塚古墳と同種の建造物であったと言えるでしょう。

 さらに本丸の南西隅には坤櫓、南東隅には巽櫓が現存し(重要文化財)、並立する三重櫓の景観が正面の追手方向からの城の威厳を華やかに演出しています。他の曲輪では二重以下の櫓ばかりでしたので、往時の城郭空間では本丸が最上位であることは明白でした。ただし、この城には天守台はあっても、建物としての天守が建つことはありませんでした。

明石城/西下の稲荷曲輪から天守台を見上げる

 

 大坂の陣以降の元和期の新城ということで、明石城と同時期に築かれた尼崎城の場合は、ここでも1町(100m余)四方の規模の本丸を有し、四隅に多重櫓が置かれるという共通の仕様が見受けられるのですが、三重櫓が三つ、残りの一つに四重の天守を備えていました。明石城では本丸の四隅に三重櫓を配し、天守台は坤櫓の北方に別置されており、尼崎城の方式とは少し異なります。仮に天守台の位置で実際の天守の建築が聳えたとして、南正面の追手方向からは坤櫓と重なってしまい、あまり見栄えがよくなかったのではないかと懸念されます。そもそも、当初から天守を設置したいのであれば、尼崎城のように四隅のどこかの場所を選択すれば済む話です。

 縄張が似通っていて、ともに築城四百年を迎える明石城と尼崎城。天守の有無については対照的な両城ですが、尼崎城の方は21世紀の天守が建設中です。文化財としての厳格な保護が求められる建造物ではなく、歴史の面影を付帯する新たなアミューズメント施設の誕生で、今後の市民活動での幅広い利用が期待されています。一方、天守台のみの明石城は、“なぜ、天守が無かったのか?”その意味するところを根本から問い直してみる絶好の機会だと思います。敢えて具体的な施設の形を求めなかったことにこそ、様々な発展系の可能性を秘めた明石城のアドバンテージが輝いているからです。