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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第98回:城郭談義(その24)「五色塚古墳と明石城@/遠い日の記憶」 2018年5月15日

館長補佐 堀田 浩之

 

 平成29年10月27日に実施された歴史の旅「海に臨む歴史の舞台をめぐる」は、爽やかな秋の好天に恵まれ、野外での史跡探訪にふさわしい有意義な見学会となりました。様々な歴史研究の方法がある中で、古墳や城跡などの建造物については、どうしても現地での検証が欠かせません。そもそも、この場所を選んで造られることの意味、また、そこから放たれる実物大のアピール力を、まずは歴史空間と直に対面した第一印象とともに、新鮮な感覚の内に味わっておきたいのです。

 時空を超えて伝来する巨大な構築物は、まさに“すごい!”の一言に尽きると思います。威厳のある佇まいには、ひとりの人間の力では到底太刀打ちできない、絶大な存在感があるのです。そんな“すごい!”対象との出会いが、現地探訪の楽しさの原点にあるのですが、さらに想像の翼を広げることで、その舞台で演じられた昔物語が垣間見えてきます。やはり現場に行ってみないと、わからないことも多いのです。

 五色塚古墳は4世紀の終わり頃に築かれました。明石海峡に臨む台地の先端に位置する前方後円墳で、全長は194メートルに及ぶ兵庫県で一番大きな古墳です。昭和40年代に発掘調査と復元工事がなされ、先進的な史跡整備の試みのもとで往時の景観が甦ります。そして、実際に現場を踏査して観察・体感できる日本有数の古墳となりました。

 

台地から切り離された五色塚古墳の後円部/明石海峡大橋が見える

 

 JR垂水駅から西に進むと、急傾斜の坂道があり台地上の市街地が広がりますが、面白いことに古墳の気配は一向に感じられません。しかし、少しばかり歩いていくと突然、葺き石を身にまとった墳丘が姿を現します。通常は航空写真を使って俯瞰・紹介されることが多い“鍵穴”のような自明の形が、水平方向からは全く窺い知ることが出来ません。台地の方から歩いていきますと、一般的な古墳のイメージとは異なる風景のギャップに出会えるのでした。後円部は外周に空堀を廻らすことで背後の台地と切り離されており、先端の前方部は高台のまま海岸へと張り出し、明石海峡に迫っています。

 この古墳の斜面には、漬物石くらいの丸い葺き石によって敷き詰められ、墳丘の最上には平坦面の縁の部分に円筒埴輪が並んで垣根を構成し、外敵の侵入を阻む神聖な区域を画す演出が施されています。ここでは樹木の生い茂った小山のような雰囲気はありません。まさしく、今日に伝えられた古墳の雰囲気を一新させる事例でもあったのです。城跡でも同じことが言えるのですが、古城のまま残された状態での環境維持と、構築物の復元整備による積極的な意味付けを行うものとで、二つの大きな方向性の違いが認められます。

 私は古墳に接する機会があると、なぜか小学生の頃(昭和40年代)、テレビで目にした不思議な光景を思い出すのです。場所は、郊外のとある公園。野外ロケで体操のお兄さんが幼児を連れて雛壇のある丘の上で手を繋ぎ、輪をつくる。「♪手を繋ごう みんなで手を繋ごう/♪ほ〜ら ほ〜ら/♪大きなお鍋(池)ができました」 演技しながら軽快に移動していくステージは、どうやら高低差のある古墳らしき史跡地でした。葺き石と円筒埴輪の並ぶ特異な現場の環境に魅了され、単なる遊び場ではない斬新な造成物の記憶が、自分もその時“行ってみたかった”夢想とともに、今でも脳裏に甦ってきます。

 

要塞のような五色塚古墳/前方部から後円部を見上げる

 『日本書紀』によると、神功皇后の帰還をねらって、明石海峡に隣接した要地に墳墓と称して、淡路島から船で石を運び込んで要塞を築いたとする、城郭史上の興味深い記事が収められています。実際のところ詳細は不明ですが、これは五色塚古墳のイメージに相通じる逸話であると指摘できるでしょう。たとえ墳墓であったとしても、大規模な土木工事によって誕生した建造物は必然的な軍事機能が伴います。要は、〈城〉or〈墳墓〉といった安易な分類で済ますのではなく、要塞としての軍事的な性格を有する特別な空間であるか否かの、問題の本質を見失ってはなりません。〈城〉が恒常施設として定型化していくのは、戦国期を経て成立する近世城郭からですが、江戸時代の明石城の淵源となる地政上の同系の事由が、この五色塚古墳の存在意義の中に見出せるのです。

 墳丘の後円部に立って南望しますと、畿内への出入口にあたる明石海峡がすぐ目の前に広がります。その先に淡路島が見えるのですが、ひとつ気になっていたことがありました。前方後円墳という左右対称の巨大な建造物を律する軸線についてです。おそらく何らかの地理的な根拠によって導き出された筈であって、そこが知りたいと思いました。こころみに現代の地形図で検証してみると、明石海峡対岸の岩屋港へと軸線の延長線が伸び、さらに東浦の篝場山へと到達します。山の名称からして、軍事的な匂いのする対象へのヴィスタのラインが、空間設計の全体計画を用意したとすれば、どうでしょう。さっそく後円部から眺めてみたところ、篝場山の突起の形を現地で確認することができました。どうやら古墳の造成に留まる単発事業ではなかったように、私には思えるのですが・・・

五色塚古墳の後円部から明石海峡と淡路島を南望

 

 21世紀の今は明石海峡大橋が対岸の淡路島を道路で結んでいます。海峡が最も狭まった場所が求められたのでしょうが、実は幕末の海防計画での軍事施設(舞子台場・松帆台場)も、ほぼ同様の場所が選択されていました。過去の由緒が幾つも重なって、現在の地域の個性が豊かに構成されるのです。葺き石をまとった五色塚古墳を見ていると、石塁を施された要塞としての堅固なイメージもまた、おぼろげながら浮かび上がってきます。

 ところで、『播磨国風土記』に当地の明石駅家を題材とする「速鳥」の話が掲載されています。朝日で淡路島を、夕日で大和国に蔭をおとす程の楠の巨木がそこにあり、それを伐って御食を供える船を造り、速鳥と名付けられました。また、これに類似した逸話が『古事記』にも収められ、仁徳天皇の治世下のこととして、「枯野(からの)」という船の物語が出てきます。やがて船が壊れると、塩を焼く燃料に利用し、焼残った木片で琴を作ると、その音は七里に響いたとあります。次々に使途を変えながらも有用な展開の連鎖が続いていき、巨木の魂は琴の音となって無形の記憶を永遠に留めていく・・・

 私はこの話を幼稚園のキンダーブックで見知っていました。他のお話のことは忘れても、なぜかこの話ばかりは印象深く今でも記憶に残っているのです。歴史とは、自身の思いとともに時空の余韻を楽しむことのできる、ユニークな学問なのかもしれません。