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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第95回: 私の好きな少女  2018年2月15日

学芸員 山田 加奈子

 

 2014年のコラムで、「私の好きな少女」という、少女雑誌に掲載された同じタイトルの記事を2つ取り上げました。

 1つは、『少女画報』1923年(大正12年)1月号の記事です。竹久夢二と蕗谷虹児という繊細な少女の挿絵で、当時人気があった画家がそれぞれ、自分の好きな少女の姿を描き、また文章でも語っているものです。

 それらの少女像は、画家の美意識に基づく、現実の少女達にはなかなか真似できない、ある種浮世離れしたものでした。自由主義的な空気が漂っていた大正期であったためか、芸術家が好きに語ったと見受けられます。

 

 もう1つの記事は、『少女倶楽部』の1934年(昭和9年)1月号に掲載されたものです。こちらは教育家の下田歌子と村岡花子や、小説家の佐々木邦と千葉省三、画家の山口将吉郎や多田北烏、林唯一、そしてまんが家の田河水泡の計8名が理想の少女像を数行ずつ述べるという内容です。

 『少女倶楽部』は、「おもしろくてためになる」「右手に教科書、左手に少女倶楽部」というキャッチコピーでも分かる通り、娯楽を通して少女達を教化する方針の雑誌でした。この記事では、画家やまんが家、小説家でも教育的な観点から少女像を語っています。

 また、1934年(昭和9年)は日本が国際連盟を脱退した翌年で、世情がぎすぎすし始めてきた時期です。1938年(昭和13年)に戦時の総動員態勢にふさわしい内容を目指す「児童雑誌の浄化」の動きが本格化するまで数年ありますが、もはや、芸術家が自らの美意識にかなった少女像を自由に語ることは難しかったのでしょう。記事で示された少女像はどれも、日々の生活の模範となるような教訓的な内容でした。

 

 さて、今回紹介したいことは上記の2つの記事ではなく、3つ目の「私の好きな少女」という記事です。『ひまわり』の1947年(昭和22年)6月号に掲載されたもので、抒情画家の中原淳一によるものです。中原は1932年(昭和7年)から1940年(昭和15年)まで、『少女の友』で活躍し、大きく潤んだ瞳、ファッショナブルな衣裳を身にまとった細身の少女のイラストで人気を博しました。

 『ひまわり』は、1947年(昭和22年)1月に中原自身が創刊した少女雑誌です。創刊号から6冊目となる『ひまわり』で、中原は少女について語ります。「私の一番好ましいと思う少女は、顔や形だけではなくて、その少女がどんな性格の人であるか、ということにあ」り、「今ここで絵に描いて見せることはできないのです」。

 そして、理想の少女の具体例を挙げていきます。「暖かい愛情や、優しい真心をもった少女、そして聡明であって、生意気でない少女、自分の生活や身の回りのことは皆自分で色々工夫して、その生活を楽しんでいるような少女。」「そして本を読むことが好きで、健康で、花を愛して、音楽を理解する、こんな少女が私は好きです。そしてピアノが弾けたらなおいいのですが。」

 中原は、自ら好む少女について、あまりに様々なことを羅列しており、実際にはなかなかお目にかかれないのではないかと一見思ってしまいます。画家が自らの美意識にかなった、現実離れした少女像を語っている点は、大正期の『少女画報』の記事と同じように見えます。

 しかし、中原は理想像をただ語っただけではないのです。自らの作り上げた雑誌を通して、理想の少女像がどのようなものか、少女達に伝え続けたのです。ただ絵や言葉で理想を表すだけでなく、ファッションやインテリアなどの実用的な記事さえも、中原が考える美しい少女のあり方を伝える内容だったのです。中原の理想の少女像が詰まった雑誌、それが『ひまわり』と言え、少女達は『ひまわり』を通して、「自分で色々工夫して」「生活を楽し」むことを知ったのではないでしょうか。そして、中原から美しい生き方を学んだ少女達が中原淳一の語る「好きな少女」であったのではないかと考えるのです。

 

 現在、当館では特別企画展「ふろくの楽しみ 明治~平成のこども雑誌から」を開催中です。戦後に少女や女性達に美しく生きることを示し続けた中原淳一の、活動の起点ともなった『少女の友』のふろくも展示しておりますので、お越しいただけたら幸いです。

 

中原淳一「少女の友ファッションブック」
『少女の友』1937年(昭和12年)8月号ふろく ©JUNICHI NAKAHARA/ひまわりや