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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第92回:播磨と曾我蕭白 2017年11月15日

学芸員 山口 奈々絵

 

 兵庫県出身の日本画家、橋本関雪(1883〜1945)は、その著書『白沙村人随筆』のなかで次のように記しています。

 

 

 一帯の青松、播州高砂を過ぎて、まさに曽根に入らむとする処、伊保崎村がある。曾我蕭白がここに住んで居たことがある。私が青年時代このあたりを遊歴したころ、路ばたの古道具屋などに、茶わんのかけたのや、膳のこはれたのなどと、よくこの蕭白の画がぶらさげてあつたもので、うす暗い店の中にあの鬼気を帯びた筆で、仙人などが描かれてあるのを見ると、たとへば、奇士陋巷に坐して、明主を待つと云つた按配。それがしばらくして売れるとなると、ばつと四方に散らばつて、その後手に入れようとしてもついぞ見当らぬ。

 この村のある寺に(名を逸した)、その頃蕭白の可なり大きい龍の襖があつて有名であつた。何しろあの凄い筆付で、襖一面まつ黒にしたものであれば、陰惨の気、座をこめて、気の弱いものは一人でよう居なかつたと云ふ。…

(橋本関雪『白砂村人随筆』中央公論社、1957)

 

 

 ここで語られる曾我蕭白(1730〜81)は、江戸時代の画家。伊藤若冲(1716〜1800)、円山応挙(1733〜95)らとほぼ同じ時代に活躍し、しばしば「醜怪」と形容される作風により、際立った個性を発揮しました。

 京都に生まれ、伊勢に遊歴して優れた作品を残した蕭白ですが、彼が播磨にもゆかりの画家であることは、この地で調査を行った先学の研究により明らかにされています。そうした播磨における蕭白研究の一つの契機となったのが、冒頭に引用した関雪の証言であったようです。

 さて、関雪によると、伊保崎(高砂市)のある寺に、蕭白が描いた龍の襖絵があったようです。残念ながら現在、これに該当する絵画は伝わっておらず、「襖一面まつ黒」に描かれ、その襖がある部屋には「気の弱いものは一人でよう居なかつた」というほどの龍の絵が、どのようなものであったかはわかりません。ただ、蕭白が大画面に描いた龍として、《雲龍図》(ボストン美術館所蔵)があります。黒々とした墨と力強い筆致によって描かれた大迫力の、それでいてどこかユーモラスな表情を浮かべた龍は、彼の作品のなかでも傑出したものの一つです。この《雲龍図》は宝暦13年(1763)に描かれたものですが、後に述べるように、蕭白は宝暦12年(1762)に高砂にいたと考えられ、この滞在が翌年まで続いたならば、この《雲龍図》が関雪のいう伊保崎の襖に当たる可能性もあると指摘されています。

 関雪はさらに、この龍の襖をめぐるもう一つの逸話を記しています。

 

 

この襖の画についても一つの挿話がある、なんでも一日、蕭白は、村の人々等と手弁当か何かで、その近くの石の宝殿に左した処に観濤処と云ふ処がある、そこへ遊びに出かけた。夏の日で、今まで晴天であつたに、驟雨沛然として至ると云ふありさま、人々はあわてて、家の庇、大樹のかげに身を避けたが、程経て雨はれ、蕭白を尋ねたがどうしたか見出せなかつた。やがて村人が帰へつて来たのを迎へた蕭白は、涼しい顔をして笑ひながら、襖を指した、と見ると、奔雨、雲を駆る勢で一面に墨気を漲らした間から、二頭の龍が、さながら生ける如く、村人の胆を奪つて跳り出さんずばかりに見えた。この襖もその後、大阪の人に買はれていつたとか。…

(橋本関雪『白砂村人随筆』中央公論社、1957)

 

 

 この伝聞は蕭白没後100年以上も経過した時点のものであり、しかも蕭白のように奇抜な作品を残す人物であれば尚のこと、画家をめぐる話に尾ひれがつくのは当然のことでしょう。しかし、その真偽のほどはさておき、まるで蕭白の龍が雨を降らせたとでも言わんばかりのこの逸話が語り継がれていた、そのこと自体が、実際にこの龍の絵を見た人々の驚きや、画家への親愛の情が伝わってくるようで、とても魅力的な証言であるように思われます。

 

【写真1】

 

【写真2】
観濤処【写真1】とそこからの眺め【写真2】。関雪によると、かつて蕭白がここに村人と出かけたといいます。
ただし岩に刻まれる「観濤処」の文字は天保7年(1836)のもので、蕭白よりも後の時代のものです。

 

 蕭白と播磨の関係は、このような逸話ばかりではありません。彼がこの地を歩いたより確かな足跡は、神社に奉納された絵馬によって確認できます。これについても関雪の言及がありますが、実際、加茂神社、曽根天満宮には蕭白の手によって描かれた絵馬が伝来しています。それぞれの絵馬に記された墨書銘から、加茂神社の《神馬図絵馬》は宝暦12年(1762)に蕭白自身が、曽根天満宮の《牽牛図絵馬》は明和4年(1767)に伊保崎村の廻船問屋が奉納したことが知られます。これにより蕭白は、これらの絵馬を制作した宝暦12年と明和4年の少なくとも2回、播磨を遊歴したと考えられます。

 

【写真3】

 

【写真4】
《牽牛図絵馬》が伝わる曽根天満宮の社殿【写真3】と絵馬堂【写真4】。
明治建造の絵馬堂では、現在も色とりどりの絵馬を見ることができます。

 

 この播磨遊歴で、蕭白はほかにも高砂周辺の旧家に作品を残しています。また、この地には「蕭月」「蕭湖」と名乗る、弟子とみられる人物もいたようです。彼らがこの地で蕭白に弟子入りしたとすれば、蕭白は一時的な滞在というよりも、ある程度の期間、この地に留まったと推測されます。

 特異な画風を以って知られる蕭白ですが、播磨には彼の絵画を求める人々や、彼の画風を慕い、弟子入りしたと考えられる人々がいました。そのような滞在先での人々との出会いに加え、京都からこの地に赴いた蕭白にとっては、風土の違い、言葉遣いの微妙な違いなどもまた、新鮮な刺激となったかもしれません。播磨での蕭白の足跡や、彼の画業における播磨遊歴の意義については、今後、さらに深く探っていければと思っています。