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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第89回: 城と狐  2017年8月15日

主査・学芸員 香川 雅信

 

 以前にもこのコラムで紹介したが(第16回「前橋の長壁姫」2011年7月15日)、姫路城の天守には「長壁(おさかべ)」という妖怪が棲みついており、人間の城主よりも権威のある、真の「城の主」とされている、という伝承がある。鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』にも「長壁は古城にすむ妖怪なり。姫路におさかべ赤手拭とは、童もよくしる所なり」と記されており、江戸時代にはよく知られていたようだ。当時の草双紙や錦絵、また歌舞伎などに長壁はしばしば登場しているが、そこでは多くの場合、狐の妖怪として語られている。例えば文化6年(1809)に式亭三馬によって著された草双紙『長壁姫明石物語』では、長壁は天竺から渡ってきた双頭の悪狐として描かれている。また、長壁は十二単を着た女性として描かれることが多いが、これは九尾の狐伝説との混同だろう。九尾の狐は玉藻前(たまものまえ)という美女に化けて鳥羽上皇に近づき、国を滅ぼそうとした大妖怪で、やはり十二単姿で表されたのである。

 

双頭の悪狐(『長壁姫明石物語』文化6年(1809) 式亭三馬作・勝川春亭画 個人蔵)

 

 

十二単姿の長壁と宮本武蔵(「東錦昼夜競 小刑部姫」明治19年(1886) 楊洲周延画 個人蔵)

 

 長壁はもともと、姫路城が築かれた姫山の土地神であったと考えられる。『兼見卿記』によれば、天正8年(1580)に豊臣秀吉が姫路城を築いた時、すでにそこには「刑部(おさかべ)大神」が祀られていたのを、町はずれに移設したとされている。その後さらに播磨国総社(射楯兵主神社)の境内に遷されたが、慶長16年(1611)に当時の姫路城主・池田輝政が中風で倒れた際、刑部大神の祟りが取り沙汰され、翌17年に姫路城の鬼門(北東)の位置に再び刑部大神を還座したという。この事実が元になって、「妖怪・長壁」の怪談が形作られたのだろう。

 延宝5年(1677)に刊行された怪談集『諸国百物語』には、姫路城の天守で輝政の病気平癒の祈祷をおこなっていた比叡山の高僧の前に30歳ほどの女性が現れ、たちまち2丈(約6メートル)もの大きさの鬼神へと姿を変えて僧を蹴り殺してしまった、というエピソードが記されている。これは明らかに慶長年間の「祟り」事件を元にしていると考えられるが、興味深いのはここですでに妖怪が女性の姿でイメージされている点である。『諸国百物語』にはもう一つ、姫路城天守の五重目に現れる怪火の正体を突き止めに行った若侍が、十二単を着た17、8歳ほどの女性に出会い、櫛をもらうというエピソードが見える。この話は泉鏡花の『天守物語』や、宮本武蔵が姫路城天守の内部で長壁から名剣を授かるという伝説の原型となったものであるが、やはり妖怪が十二単の女性として表現されている点に注目すべきだろう。

 なお『諸国百物語』では、姫路城の妖怪は「長壁」とは呼ばれておらず、自らを「権現」「城の主」と称しているに過ぎないが、ほぼ同時代の貞享2年(1685)に書かれた井原西鶴の『西鶴諸国ばなし』には、姫路に棲む狐の妖怪として「於佐賀部(おさかべ)」の名前が挙がっている。姫路城の妖怪は狐であるとの認識が、当時すでに広まっていたことがうかがえる。

 しかし、本来は城のある山の土地神であった「長壁」が、なぜ狐の妖怪とされるようになったのだろうか。民俗学の父・柳田國男が昭和14年(1939)に著した論考「狐飛脚の話」は、この問題を考える上で重要な視点を提供してくれているように思われる。

 柳田はそのなかで、古城址の多くに稲荷社が祀られている事実に注目している。多くの場合、そこで祀られている狐はかつて殿様の飛脚を務めたとされ、人間では到底ありえない速さで書状を届けたが、その道中で狼や犬に食われた、あるいは狐罠にかかって死んだという話が伝わっている。秋田・千秋公園(久保田城跡)の与次郎狐、米沢・長井の御城代屋敷の右近・左近、鳥取城の経蔵坊狐、松江城の新左衛門新八などがその代表的なものであるが、柳田は城のような人の少ない場所では狐の自由な挙動を観察する機会が多く、そこから狐が賢い動物だということが感じられるようになって、やがて一種の地主神の信仰と結びついていったことを示唆している。

 

桂蔵坊(経蔵坊)狐を祀った鳥取城の中坂神社

 

 城を築くにあたっては、山を切り開くなど大規模な自然開発を伴うことが多かった。『類聚名物考』には、「しろ」という言葉は、「苗代」などの例に見るようにもともとは土地をならして平らにすることから生まれたという説が紹介されている。城が自然破壊を伴うものであれば、そこには必ず自然との軋轢が生じるはずだ、とかつての日本人は考えた。この自然との軋轢が形を取って現れたのが、妖怪であった。

 妖怪とは、自然に対する畏怖の象徴である。例えば山への畏怖は天狗や山姥の幻想を生み出し、海への畏怖は舟幽霊や海坊主、川への畏怖は河童などに受肉する。また、山や川・渕・池・湖にはしばしば「主(ぬし)」と呼ばれる存在が棲むとされるが、これらはまさに自然を象徴する存在である。そして、山や川・渕・池・湖以外に「主」がいるとされるのが、人工物であるはずの「城」であった。城はいわば、人間の領域から自然の領域へと打ち込まれた楔であり、ふたつの世界の境界であった。それゆえに、城には妖怪が跋扈するのである。

 自然開発と妖怪との関係を考える上で重要な手がかりを与えてくれるのは、『常陸国風土記』に記された次のエピソードである。箭括(やはず)の氏の麻多智(またち)という人が、谷を新たに開墾しようとしたところ、「夜刀(やつ)の神」、すなわち「谷(やつ)の神」と呼ばれる頭に角のある蛇の群れが現れてそれを妨害した。怒った麻多智はみずから矛を取って「夜刀の神」を打ち殺し、また山に追いやった。そして山の入口のところにしるしの杖を立て、そこから上は神の地、下は人の土地とすることを宣言し、以後はみずからが祭祀者となって神として祀ることを約束する。おそらくは谷の土地神であった「夜刀の神」が開発に怒って「妖怪」として祟りをなすが、自然と人間との間の境界が確定され、一種の不可侵条約が結ばれると、再び「神」として土地を守るようになるという、日本における神と妖怪のあり方をみごとに表わした説話である。柳田國男は、妖怪は神が信仰を失って零落したものとしたが、神も妖怪もいずれも自然の象徴と見なすことができ、自然と人間との間に軋轢が生じ「祟り」が発現すると妖怪、それが調停され再び不可侵条約が結ばれると神としてとらえられると考えた方がよいだろう。

 こうした自然の象徴としての神あるいは妖怪は動物の形を取ることが多いが、城の場合は狐とされることが多かったようだ。柳田が紹介した「狐飛脚」の伝承のほかにも、館林城や長岡城など、狐が縄張り(設計)を教えたという伝承を持つ城がいくつかある。おそらく城のある場所(城山など)に実際に狐が多く棲息していたということもあるだろうが、山を下りて頻繁に里に入り込んでくる狐は、自然と人間の領域を仲介するものとして最適だったのだろう。

 

姫路城天守最上層に祀られる長壁神社