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学芸員コラム れきはく講座

 こんにちは。兵庫県立歴史博物館です。このコラムは、当館の学芸員が兵庫県域の歴史や、あるいはさまざまな文化財に関するちょっとしたお話をご紹介していくものです。一月から二月に一度のペースで更新していきたいと考えていますので、どうぞよろしくお付き合いください。

 

第85回:城郭談義(その21)「平安時代からのヒント/思考の錬金術!」 2017年4月15日

学芸課長堀田 浩之

 

 大学生のころ、平安時代のことを色々調べておりました。のこされた文献の数が少ないこともあり、史料の群れを次から次へと追いかけておりました。そして気付いたことは、同じ平安時代であっても、六国史や各種の編纂物、そして公家たちの日記など、その時々で著された記録の内容により、表現される社会の雰囲気が随分と違うということでした。

どうも、読んでいる史料の限られた情報のみを以て、世相を評価・把握する作業は根本的に困難ではないかと考えが及び、それでは時代の真相究明に対しては、如何なる方法論が求められるのか、漠然と不安を覚えたことが懐かしく思い出されます。

 平安時代の前期は、政争や災害の記事が多く、何となく暗い世相にあったことが編纂された歴史書からうかがえます。何もそこまで悲観的にならなくても・・・≠ニ思いつつ、記録者の生の息づかいが妙にリアルでもありました。延喜(醍醐天皇)の頃だったと思いますが、花が季節外れに咲いたことを当時の人が嘆いておりました。異常事態を物語る恐るべき自然現象だったのでしょう。ところが後世の人は、それとは全く別の見方でこの時の過去の事象を評価しております。曰く季節外れの花が咲くほど、すばらしい時代であった・・・≠ニ

 これは一体どうしたことでしょう。菅原道真の活躍した延喜のころは、摂政・関白が常置されておらず、藤原氏の影響力が比較的に弱かった時代にあたります。つまり天皇がイニシアティブをとる理想的な政治体制が行われたと見なされ、後世からの良いイメージを一方的に付与された結果、それが歴史事象の解釈の変更にまで及んだということなのです。

 歴史の評価には、当時の感覚に対する後世の別の言説が介在しますので、両者のギャップには往々にして注意が必要です。今日の現代史の研究においてさえ、その時代の雰囲気を知っている筈の人間として、実感とは異なる次元での難解な学説の展開に戸惑いを感じることがあります。

 

姫路城/桜満開の好日 ※城と桜の風景も後世の新しい感覚なのかもしれません

 

 ところで、大類伸・鳥羽正雄共著の『日本城郭史』(昭和11年)は、研究を志す者にとってのバイブル的な存在ですが、その中では既に平安時代の事例が紹介されており、偉大な先賢の豊かな見識に感心させられます。「今昔物語集」の説話から引用した「人呼ノ丘」がそれで、周囲にメッセージを発信する在地経営の拠点の施設として、近世城郭の天守にも相当する機能の原形を、そこに見出していました。

 この話は、京の知り合いを地方に在る館に招いて、芋粥を腹いっぱい食べたいという、ささやかな望みを叶えさせようとするもので、夜半に「人呼ノ丘」から、人の肉声で芋粥に使う材料を持って来させる告知を行ったことが語られています。この時代の通信手段を示す貴重な証言なのですが、周囲への指令を行う求心的な装置の意味合いを『日本城郭史』では問題としていました。有事の際の鐘や太鼓の合図に通じるところがあるのでしょうが、それにしても、音声によるコミュニケーションのあり方には興味をひかれます。

 おそらく、在地を広く見渡せる高台から、声のよく通る人物からのメッセージが発せられたのでしょうが、翌朝には何事もなかったように、館の方へ芋が届けられます。あらためて平安時代の人は、現代人以上に“聞く力”が備わっていたものと驚嘆させられます。地元の有力者からの意志が発信される「人呼ノ丘」は、在地の人々が聞き耳をたてて情報を待ち受ける特殊な施設であり、それだけに地域をまとめる城館の枢要アイテムとして、その存在感をしだいに高めていったのではないでしょうか。

因みにキリスト教の教会では、鐘の聞こえる範囲で信者を集めて布教活動が試みられるとのことですが、情報伝達を“音声”に託して形成される生活空間の意義について、視覚を前提とした“文字”運用の社会との相違を、この際じっくり考えてみたいものだと思います。

 かつて姫路藩主の酒井家では、“褒める(褒められる)”ことが、その者の栄誉とされていた時代があったといいます。“物品”という具体の形ではなく、“言葉”による音声の無形表現が、価値のスタイルをそのまま完結させていたのでした。(なお、平安時代には官位の辞令において「口宣」が発せられましたが、文字通り、口頭での音声による告知を原形にしたものと考えられています。油断して聞き取れないと大変な事態を招くのでした。)

 

国府山城跡/麓の妻鹿を見下ろす ※ここからメッセージも届きそうです

 

 さて、藤原宗忠の記録した「中右記」だったでしょうか、平安時代後期の公家の日記に気になる記述があり、今も時おり思い出されます。そこでは天皇の御所造営について、一つの見解が示されていたのです。天皇の正規の御座所といえば、平安京の中央北端に位置する大内裏の一角に正式な施設があったのですが、10世紀に火災で焼失して以降、当座の仮御所が京中に用意される事例が多くなりました。あくまで仮御所であるため、いわゆる「里内裏」が固定的に造営されることはなく、転居の意向があれば、その都度あらたな候補地の中から選ばれました。

 「里内裏」については、“本所”としての内裏が本来の尊重すべき対象であることから、古来の伝統に則った仕様を求めないで済ますことが出来るというのが、当時の公家たちの見解でした。これによって、一町四方の京中の敷地においても、建物の規格を減じて一般の貴族の邸宅をベースにした臨時の内裏仕様を用意することが可能になりました。“本所”の存在を根拠に、自由度の高い運用が許された“仮設”の立場を堂々と主張できたわけです。考えてみれば、律令に定められていない官職を「令外官」として登場させるなど、根本を変えずに部分補正を行う現実的な対処法は、この国の古来より見られた文化風土なのかもしれません。

 そして、その大きな流れは“臨機応変”をモットーとする城郭建築へと、確かに受け継がれていきます。アンシンメトリー(非対称)な構成をとりながら、姫路城の連立式天守の内と外で仕様が異なるのは、“軍事”と“生活”の建築機能のダブルスタンダードを、両立させようとした巧みな表現ではないかと、実は想像力をたくましくしているのです。

 

姫路城/連立式天守の内庭から西望(左が大天守) ※アンシンメトリーの構成